いかに悠長なことを言っていられるか

  

ノーカントリー」という映画がある。

アカデミー賞に選ばれた映画で、監督はコーエン兄弟。原題は「No Country for Old Men」、コーマック・マッカーシーの同名小説を原作にもつスリラー映画である。

物語の筋は追跡劇である。カウボーイ生活をしているルウェリン・モスという男はある日、荒野で大金の入ったアタッシェケースを見つける。そのカネを持ち逃げしたモスはカネの持ち主に雇われた殺し屋シガーに追われることになる。殺し屋シガーは厳格に自分ルールを守る常軌を逸した男であり、目的のためとあらば人の命を奪うことに躊躇がない。モスを追うシガーは何人もの命を事も無げに奪っていき、正確にモスとの距離を詰めていく。同地方のベテラン保安官ベルは数々の血を流しながらモスを追うシガーの足取りを追う。

日本では缶コーヒーBOSSのCMで有名なトミー・リー・ジョーンズが演じるベテラン保安官ベルの語りで物語は進行していく。ベルは父親の代から保安官として世の中で起こる暴力に対処しようとしてきた。理不尽を体現する殺し屋シガーは、つねに暴力に対抗してきたベルの理解をも超えている人物であり、コイントスによって関係した人物の生死を決定していく。シガーはほとんど行き違いのような関係でもコイントスを課し、彼の邪魔をする人物は冷酷に処理する。彼の武器が牛を屠殺する用の装置で、空気圧でボルトを脳天に打ち込むものであるというのは象徴的で、彼は殺すことに決めた人間を屠殺するように殺していく。殺意なく、あくまでも作業として殺すのである。

絶対的な暴力は、それが絶対的であるという点において最上級の暴力である。もしかすると助かるかもしれないだとか、話せばわかるかもしれないとか、そういう望みが絶対にないという事自体が暴力となる。シガーと出会えば殺されるというのはコイントスによる確率の問題であり、シガーが殺すことに決めたら殺されるというのは決定された事柄である。この映画ではそのルールの絶対性が表現されている。シガーが登場してからシガーが退場するまでの間、このルールの絶対性が、すなわち暴力が描かれていく。それも一応の会話コミュニケーションがある。恐竜やエイリアン相手のように対話不可能ではないからこそ、望みの無さが暴力になるのである。言葉は伝わるのに思いが伝わらない瞬間の無力感。「ノーカントリー」でコーエン兄弟は強固な世界観を提示してくる。語り役のベルはその世界を確認することしかできない。観客はそれを見させられる。

この世界には暴力が存在している。暴力が存在するこの世界を不満に思ったとしても暴力を消すことはできない。この世界に対して向き合い、暴力を無くそうとすることはできても実際に暴力を無くすことはできない。シガーを止めることはできないし、シガーに追われたら逃げることもできない。シガーを止めようとすると殺されるというのはこの世界のルールである。これは動かせない。せいぜいシガーと目が合わないように気をつけて暮らすことで、もし目が合ったらコイントスの成功を祈ることである。それしかできない。

そういうルールが適用された世界の人、シガールールに従って生きている人から、ルールを破ろうとしないことの重要性を指摘されたとしても、あまり納得はできないし、大体の場合聞き流すことになると思う。彼の話を信じないというわけでもないが、やはり真に受けないだろうと思う。シガーというのはフィクションの登場人物だからといって、もっとゆるい自分たちのルールの方を守って生きていくことになると思う。

そして僕はそういうスタンスは間違っていないと思う。

つよいルールとよわいルール同士がぶつかった場合、ぶつかり方にもよるが、たぶんつよいルールがよわいルールを打倒し塗り替えることになると思う。つよいルールとよわいルールというと、つよいルールが勝つのは当たり前のようだが、たんに言葉遣いのうえではなく、そう思うのだ。強固な世界観に裏打ちされたルールがつよいルールであり、ふわっとした世界観に裏打ちされるのがよわいルールである。たとえば個人間でもルールに強弱はある。これをすればあるいはしなければ死ぬというルールはつよいルールであり、これをすればあるいはしなければエヘヘと笑えるというルールはよわいルールである。エヘヘと笑えるかどうかを生死よりも優先させるエキセントリックさは珍しいが、それと同じで、程度の差こそあれ、よわいルールがつよいルールに優先されることは少ない。みんなで決めようという場合などはとくにそうである。

フィクションのルールはフィクションのルールなので、それがいかに真実に迫っていようと気軽に受け止められる。しっかり考えるとフィクションとリアルの境界はそこまで絶対的なものではなく、むしろルールを緻密に描写しているフィクションは多く、より解像度が高いのはフィクションの方であるということも珍しくない。向き合ったり考えたりすることがむずかしいような事柄でもフィクションとしてなら考えることが可能だったりする。

選択が可能であり、しかも選択が無意味な場合に不条理は感じられる。青いカプセルか赤いカプセルを選べと言われて選んだのにどちらも毒だった。これが第一の不条理である。ただし、この不条理は選んだ当人には感じることができない。当人にとって選ばなかったカプセルはただちに存在しなくなる。当事者は答え合わせすることを許されていない。第二の不条理である。

それを見るのはつねに第三者の視点からである。第三者の視点こそがフィクションの立ち位置といえる。第三者の立ち位置というのは後ろめたさを伴うもので、それが現実の世界に用意されている場合、小市民的良心の呵責に苛まれる。安穏としていられる状況にあって悲惨な状況を高みの見物しているという意識がついてまわるからである。

安全でいられる場所をのぞむなら、それは同時に良心にとっても安全な場所でなければならない。現実に悲惨な状況を見せられて平気でいられる冷血漢としてはとてもじゃないが生き切れない。見て見ぬふりや知らんぷりも必要であるが、それだけで押し通すこともむずかしい。たまには、この世界にあって直視に耐えないがそれでも考えるべきことを考えることが必要である。選ばれた人間としてではなく小市民として。それがたぶん一番楽な姿勢であると思う。

フィクションを通じて暴力に触れることで、それについて考えられるようになる。それがもっともマシな形であると断言できる。実際の事件に関わる暴力について考えることは限られた数のプロにしかできないし、それをするべきだとは思わない。プロのしていることも、事件のことをプロの視点で切り取るということに留まっていて、事件の暴力性については小市民的な感覚以上のものはもっていないはずである。

暴力的なものに接すれば接するほど暴力的なものに対する感覚は摩耗する。もしプロが暴力に対してひとかどの意見を持っているように見えるなら、それは回数を重ねたことによる鈍麻だといってしまってもいいかと思う。それは他ならぬ現実への鈍麻であり、現実感の喪失である。それは治療に効果を発揮することもあるが、治療そのものではない。現実に現実感を失うのは痛みを痛みと感じないことにすぎない。彼が感じないからといって世界から痛みがなくなるわけではない。

フィクションによる暴力は、現実におけるそれに対する鈍麻を回避しつつ、考えるべきことを考えさせてくれる。暴力について考えるべきことというのは何か。暴力は偏在する。暴力はどこにでもある。暴力は関係の中にある。関係の中以外に暴力はない。一方向的であることがほとんどであり、相方向的な暴力はめったにない。また、渦中にあっては被害加害問わず意識できないことがありうる。形而上学的な暴力について思いを馳せることはどうしても必要である。ただし、それは形而上学的に暴力であるというメタ認知が必要であり、それを弄ぶうちに暴力がとるに足らないものに感じられるという過りを予期しなければならない。それはやや負担が多い。考えなければいけないことが多くなると、全量を考えられないため結局何かを端折ることになる。それはテーマから迷子になることを意味していて、形而上学の利点でもあるが、現実に暴力に対する鈍麻と選ぶところがない。

暴力に触れることによって体調がわるくなるという経験はそれぞれが通過しなければならない。暴力を受けるのでも見過ごすのでもなく、体調の良い状態で、それを見、体調をわるくしなければならない。その条件は現実にはない。現実の暴力を見るというのはそれを見過ごすことの中にしかない。そして、見過ごせないと感じ、行動するとき、主体はすでに暴力の渦中にある。

さしあたって、渦に巻き込まれないための抵抗しか自分たちにはできない。しかもこの抵抗には全力を尽くさねばならないので、第二段階について考える余力は残されない。考えられないことを考えようとしても無理だ。そんなこと言ったってしょうがないじゃないか、だ。

'Ok, I'll be part of this world.' 

開き直って何もしないのではなく、暴力への抵抗として何もしないこと。それが「この世界の一部になる」という決意である。「ノーカントリー」における保安官ベルの悲しみにみちた表情を見て自分はそう思った。

 

 

 

ノーカントリー (字幕版)

ノーカントリー (字幕版)