小説「彼岸先生」を読んだ


とんでもない映画を見た時の興奮というのはものすごくでかい。僕はそのでかさに対しては一ミリの疑念さえ抱いたことがない。とにかくその衝撃、とんでもなさ、感動、なんとでも名付けようのあるそれにはただただ圧倒されるのみである。
しかし、その圧倒される状態というのは長持ちするものではない。長くて1週間、短いと寝て起きるまでの間、圧倒されるにすぎない。だからといって感動のでかさを低く見積もるわけではさらさらなく、むしろその逆で、とんでもないからこそ、圧倒されるからこそ、その状態を維持できないのだと見るほうが自然だし納得がいく。
では、とんでもない本を読んだ場合というのはどうであろうか。僕は本を読み通すのにまあまあな時間が掛かってしまうタチなので、興奮もそれにあわせて引き伸ばされることになる。うすーく引き伸ばされた感動をながーく味わうことができる、これが映画鑑賞に対する読書のアドバンテージということになるだろうか。
それなりの本を読んだ場合というのはそれなりの感動をそれなりの時間を掛けて味わうことになるので今言った通りのそれなりの良さがある。しかしながら僕はそれなりの本の話をしているのではなくとんでもない本の話をしているのである。とんでもない本というのもとんでもない映画に負けないぐらいのでかい興奮を味わえる。しかも映画よりも長い時間それを味わえる。1ページ毎に衝撃を受けて、本を閉じて目を瞑る。そして深呼吸してから、続きを開く。そういう読書をしたことがあるだろうか。
僕はある。そういう読書体験はあまり多くないが、それでも何度かそういうことが起こった。だからいくら時間が掛かろうとも僕は暇を見つけては読書をしたがるのだろう。
そして、最近そういう読書をした。読んだのは島田雅彦の「彼岸先生」である。
この「彼岸先生」という小説は結構変わっていて、夏目漱石の「こころ」を下敷きにしたパロディ小説ということになっている。主人公の「ぼく=菊人」と「先生」の師弟関係を軸にいろいろな登場人物がいろいろなことを言ったりやったりする。僕は近頃自分なりに「こころ」を読みなおすということを意識的に試みたばかりだったので、「彼岸先生」を読むタイミングとしてはこれ以上なかった。ブックオフの本棚でたまたま見つけた。本屋でたまたま見つけた本はいい。なんとなく横目で見てイケメンだなあと思うだけ思って手を付けずにいた島田雅彦を読もうと思ってブックオフに行ったわけではない。ちょうど「教団X」というつまらない小説を読んだばかりで、現代の小説はくだらないという勘違いをしたくなかったので、適当な作家のそれなりに面白そうな小説を読んでおく必要を感じて、そういうのを定価で買うのも馬鹿らしいとも思うので、「教団X」を売っ払いがてら、ブックオフの本棚を物色したのだった。そこで件の「彼岸先生」が108円で売られているのを見つけた。2冊あったのでまだきれいな方を選んだ。
こういう流れがあっての読書だったので、中身を読んでいって驚いた。というか本当はブックオフの店内で驚いた。「こころ」のパロディであること、あとは「彼岸過迄」を思わせるタイトル、さらに最終章の小題「それから」、夏目漱石好きとしてはこの時点でアタリのあたりがついていたわけだが、自分がいちばん好きな漱石作品のひとつである「それから」が最終章の小題であることに一番ぐっと来た。
主人公・菊人がロシア語を学ぶ大学生であること、彼女の名前が砂糖子(さとこ)ということ、先生がNY生活を送っていたこと、こういう部分部分がいちいちしっくり来た。先生の呟きがもてる者の小唄であるのも良かった。「こころ」は誠実な登場人物による誠実な小説だが、「彼岸先生」もそれに負けないぐらい誠実な小説だと思った。そして、自由人である先生はヤること為すことそれっぽく、素晴らしいと思うのだが、その先生が「やらないこと」の方もはっきり見えてきて、それが自分のなかの先生を決定的にした。小説内の登場人物について「自分はこの人を知っている」と思えることはとんでもない小説の条件のひとつだと思う。その点、先生もぼく=菊人も申し分なかった。菊人が師匠を持つことに憧れるという時、共感の線がはっきり引かれた。「こころ」の私にもつながる線。

ぼくは先生の顔のファンであると同時にその不思議な確信の隠れた信者の一人だった。彼の本には真実が書かれている。先生は何もかもわかってしまう人だ。先生にはツキがある。この人なら何か仕出かしてくれる。要するにぼくは先生を体のいい人生の教師と見立てたかったのである。教師は確信の人でなければならない。それが信仰の対象であれ、攻撃の的であれ。ぼくは少年時代から師弟関係のようなものに憧れていた。

また、「彼岸先生」には面白くない登場人物がひとりも出てこなかった。登場人物を制限するのはフィクションにとっての良心だと思う。その意味でかなり良心的な小説で、僕はそういうものを読むと清々しい気分になる。ノンフィクションと呼ばれるものも作者の方で登場人物を制限していたら、フィクションとして充分通用すると思う。
「彼岸先生」を読んで清々しい気分を味わいながら、同時にこれ以上はやばいという気持ちにつねに脅かされた。ようするに島田雅彦にハマってしまうという危惧で、胡散臭くあるものに対しては距離を保たねばならないのに、その禁忌の感覚も手伝って結構な引力で吸い込まれていきそうになるのを読書の間中ずっと感じていた。表現は軽快であり内容は重厚、それでいて胡散臭いところが残る。そしてそれはチャチなものじゃないと僕は感じた。チャチなものだと感じようとしてもそれができなかったというわけではないと思う。気持ち次第のものは大体なんとかなる、でもそれをあえてしようという気にはならなかった。つまりできないんじゃなくてやらないんだと自分で思っていたということで、洗脳ってそういう感じらしいからやっぱりやばい。
結局僕は「彼岸先生」を読んで生き方について考えさせられた。今に賭ける気持ちの弱さ、オール・イン感覚の欠如、自由じゃないことへの無意識的な迎合、これらがことごとく自分の方を向いて襲いかかってきた。「彼岸先生」たちは他人のことをあんまり考えない代わりに自分のことを一途に考えている。
僕も自分のことを考えようとしている。他人のことを考えない以上、自分のことを考えなくなったら終わりだぞという気持ちではいるのだが、何も考えていない時の自分はマジで何も考えていない、そういうものだろうとは思うが、そういう時間が多すぎるのではないかと不安になった。フィクションに対抗してもしょうがないとは思いつつ、ひと月ぐらいは不安でいるような気がする。

私は自分に正直であるために生活の信条も理想も持たないのだ。時にはしたくないことも進んでする。もちろん、したいこともする。だからといって、何でもするわけではない。私は迷い続ける限り、自分に正直でいられるし、不安や苦痛と馴れ合っている限り、幸福でいられる男なのだ。


彼岸先生 (新潮文庫)

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