【書評】「僕は問題ありません」宮崎夏次系

 

宮崎夏次系という漫画家を知ったのは、星野源のラジオかなにかをyoutubeで視聴してだった。星野源は「変身のニュース」と作者の宮崎夏次系を推していた。

僕は本屋に走り宮崎夏次系のコーナーで「僕は問題ありません」というタイトルに惹かれてそれを手にとり表紙の赤い蟹を吊るし持った男女をまじまじと見つめた。

 

「退屈から生まれたダンスをふたりで踊る」

 

僕がひき出したこの漫画のテーマはこれであった。

ときどきの悲しみ、ときたまの喜び、基本の倦怠、それらを音楽として、目の前の相手をパートナーとして、踊る。踊る様子が漫画の絵になっているのは面白い。止まっているのに動いて見える不思議。

 

「僕は問題ありません」という言葉は唐突のようにして出てくる。一話完結型の漫画なのですべては唐突のようにして出てくるのだが、ある種の言葉はいつ出てきても唐突なものだ。唐突ということは認識が遅れるということで、先にフィジカルな反応が起こる。見たものが何かを分かる一瞬前に見たものをただ見たものとして見ることになる。

そういうのは漫画ならではというか文章では起こりにくいものだ。ただ、漫画にも文法があるし読み方の作法もあるから、その意味ではまだ文章に近いといえる。絵画になると見たものを見たものとして見るということは起こりやすいが、漫画はその中間で文法も見るだけの部分もどっちもある。

漫画は漫画の文法をビジュアルによって裏切れるのが強みだと思う。裏切るというのはフリとオチの落差をつけるということだ。漫画文法に則ることでフリを効かせて絵で落とすのは効果的だと思う。しかも絵にかぎらず文字によってもそれができる。「僕は問題ありません」。言葉のもつ面白さを絵をフリにして引き出すことができる。

 

「僕は問題ありません」というのは裏腹な言葉だ。それを言うことによって言葉の内容とは真逆のことを表してしまう。

「僕は問題ありません」と言わないといけない状況にはやっぱり問題がある。

これは本来、誰かにいってもらわないといけない言葉だ。主語は一人称ではなく二人称であるべきだ。「君は問題ありません」。その言葉があってはじめて救われることになる登場人物が宮崎夏次系の漫画にはどっさり出てくる。そして、言われ方は様々だけど、言葉じゃない時もあるけど、「君は問題ありません」と言って、登場人物がギリギリのところで救われる話が多い。後のことを考えれば全然助かっていない話でも、その瞬間はたしかに救われている。

なぜ救われているのがわかるかというと、死なずに生きているから、ではない。彼らがダンスしているからだ。