軽薄
自分が軽薄な人間を演じている感覚というのはあるわけです。
一方で、軽薄な自分を演じているということを根拠にして、自分はそこまで軽薄なわけじゃないと考えようとしている軽薄さもあるわけです。これは両方あるわけで、前者と後者をつなげて考えればそれだけ軽薄の度合いが深くなるということになるし、別個のものだと考えればそれだけ軽薄の数が増えることになります。
また、これらの自己言及は簡単に循環させられます。
……ということを自覚しているのだからそこまで馬鹿じゃない、ということに安心を覚えるぐらいの馬鹿、ということを自覚しているのだからそこまで馬鹿じゃない、ということに安心を覚えるぐらいの馬鹿、ということを自覚しているのだから……
このようにすれば、深くするか数を増やすかという選択を行えば、あとは自分で満足するまで深いところに行ったり、数を増やしたりできます。
自分は数を増やす方向に進みましたが、3ぐらいでげんなりして止めちゃいました。深くするということは好みじゃないので数を選んだのですが、深いということもどうせ大したことじゃないと思っています。それよりは数が多いほうがよくないですか。わかりやすいし。
しかし、選ばなかったことで、ひょっとして深いということには自分が想像する以上の何かがあるのではないか、価値ある宝物が深いには隠されているのではないかという気にもなってきます。そしてこれこそ自分が望んだ効果です。奥まったところにはなにかあると思えるほうが、そう思えないよりずっと楽な気持ちがするような気がします。星の王子さまもそんなふうなことを言っていました。
軽薄なポイント(Kポイント)は勝手に増えていきます。たったの3でげんなりしたのですから、それ以上の数にしようという動きを自分はとくにしていません。動いていないのにもかかわらず、どんどんどんどん膨らんでくるようです。膨らんでくることに気がつかないふりを続ければ続けるほど数は増えていくようです。楽な気持ちを続けることで、その居心地の良さをめがけて、軽薄が軽薄を呼ぶのかもしれません。
軽薄というのは文字通り軽くて薄くてぺらぺらのスカスカです。結構な数を重ねてもまだ藁半紙みたいな厚さです。それでいて数相応の膨らんだ感覚はあります。この齟齬が、回を重ねるごとに深刻になっていくようです。思い込みの深さには価値があると聞いています。実際に価値があるかどうかを云々するつもりは毛頭ないのですが。
リア王のなかでとくに印象に残っているシーンがあります。失脚し目が見えなくなったグロスター伯が、かつて自らが追放した息子のトムがエドガーと名乗って近づいたことに気づかず、彼の自殺を食い止めようとする企てにまんまと乗せられてしまうシーンです。なんにもない平地を断崖だと言いくるめられて、いかにも悲劇的なセリフを口にした後、自ら身を投げるのです。この場面の悲しくも滑稽な感じというのは、何もない平らな地面から飛び降りようとするその見てくれからしても結構なものです。
丘の上まで、まだあるのか。
――いま登っているところです。まあ難儀なことだ。
道は平らなようだが。
――きつい坂ですよ。ほら、波の音が聞こえましょう。
聞こえんぞ。
――目の痛みで耳まで悪くなったのかな。
そうかもしれん。
そうかもしれん。
そうかもしれん。演劇史上最高のセリフだと思います。