わからないということ(2)


わからないということを大事にしてほしいと思います。

 

わからないことを、わからないという理由で顧みない大人は残念ながらたくさんいます。

大人はなんでもわかるはずというのが子供時代の幸福な幻想だというのは、高校生にもなった君たちにはもうわかってしまっていることだろうと思います。大人にもわからないことはたくさんあります。

それでも、わからないということを大事にすることはできます。わからないことを大事にするというのは、わからないことをわかろうとすることです。わからないからといって無視するのでは、わからないということを大事にすることにはなりません。まずは、わからないものに挑もうとする姿勢を失わないでいてください。君たちは学校で9年以上、10年にもなるでしょうか、教育を受けてきました。わからないことをだんだんとわかるようにしてきました。考えてみてください。はじめのうちはみんな九九もわからなかったわけです。それが今は当然のようにわかっている。そのような「わからないをわかるに変える営み」を継続して行ってきていて、しかもその最中にいるわけです。そういう日常を生きているわけです。だから「わからないことがわかるようになること」にかけては、君たちは大人たちよりもずっとわかっているのではないかと思います。それをできるかぎり覚えていてほしいと思います。

 
わからないことをわかるようになるというのには二種類あります。知識の問題であれば、調べて、知ればいい。知らないことを調べて知るには、今はとても便利な時代です。問題は、調べてもわからないことについてです。検索窓に検索語を入力してもわからないことについてです。検索窓に入力しても答えが得られないというのは、誰もその答えがわかっていないということを意味していると考えてもいいと思います。君たちも遠からずそういう問題に直面することになると思います。なかにはそういう問題にすでに直面している人もいるかもしれない。そういう問題については、考えることが大事だと僕は思います。考えることの何がいいかというと、まず、考えたらわかるかもしれないことです。検索しても出てこない条件ではたいていの場合は考えてもわからないとは思いますが、可能性はゼロじゃない。それに、考えてわからなかったとしても、それが無駄だとは思いません。考えてもしょうがないという言葉をよく聞きますが、ある問題に関しては「考えてもしょうがないけどそれでも考えたほうがいい」と僕は思います。考えるということは大事にすることとつながっていると思うからです。考えるということはわかろうとすることです。
誰かのことをわかろうとするのは、人が人に送れる最高のプレゼントだと思います。本来人のことをわかるのは不可能です。他人のことなんだからわかるわけがない。それでもわかろうとする。考える。そういう努力を他人に向けることはできます。そのとき、あえて「わかった」と言ってあげてもいい。正直に「わかりたい」と言ってあげてもいい。もっと正直に「わからない」と言ってあげるのがいい場合もあるかもしれない。考えるからこそ「わからない」といえるわけです。そういうことを誰かに言われたら嬉しいだろうという気がしませんか。たとえ何も言われなかったとしても、自分のことを考えてくれたとしたら、それだけでなんとなく嬉しいものです。
 
いずれにせよ最終的にはわからないということをわかっておくことは大事です。わからないということを尊重できない人、なんでもかんでもわかるで押し通そうとする人にはなってほしくないです。「お前はこういうやつだよな」という相互の認識はコミュニケーションにとって欠かせないところではあるけれども、それに一枚噛ませるのはとても大事なことです。ひょっとするとちがう部分があるかもしれない、知らない一面をもっているのかもしれない、そういう余地をもたない他者規定はいけない。暴力です。
 
ただ、ここが矛盾というか難しいのですが、わからないままでもいいや、とつきはなして思うのは、わからないということを大事にすることにはなりません。あくまでも、わかろうとすることの中にしか、わからないを大事にする姿勢はないと思います。その意味では、なんでもわかるで押し通そうとするというのも有りです。有りどころか、その挑戦する姿勢に関しては尊敬すべきとさえ思います。その人が本気でなんでもわかると思っていたとしたら、だいぶキツいですが、本気で思っているかどうかなんてこちらからはまあわからないわけなので、いい方に捉えておくのがいいんじゃないかと思います。
 
わからないことをおそれず、わからないことに慢心せず、わからないことを大事にしていってほしいと思います。
 

 

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