ぼくのかんがえたさいきょうの私の個人主義

 
自分が影響を受けたものといえば数え切れないほどあるし、そもそも数えることができない。自分でも知らないうちに影響を受けていることなんていくらでもあると想像される。
しかし、その中でも、自分自身これには影響を受けたと断言できる文章がある。影響を受けたという言い方では少しヌルい。呪縛されたといったほうが自分の心にとって正直だろうと思う。
それは夏目漱石の「私の個人主義」である。
これは漱石が講演で語ったことを文章にしたものだが、この中に「自己が主で、他は賓である」という言葉が出てくる。自己がホストで他人はゲストだ、ぐらいの意味だ。「自己本位」という言葉も出てくる。自己を中心におくいうことだ。
僕はこの文章を読んだ時、思わず膝を打った。今でも覚えている。あんまり感心したものだから、ここは膝を打つ必要があると判断して、ポーズをとるように膝を打ったのだった。
それ以降は、今でも、自分のある部分について考える時には他人を度外視するようにしている。その部分に関してだけは他人がどう考えようが関係ないと断言できるようにしていようと思っている。ただし、自分のそれを尊重するには他人のそれも尊重しなければならない。他人のそれというのは自分には想像ができない領域のことなので、とりあえず他人というものにはどこまでも遠慮をする必要があるように感じられる。そのため、他人との関係は非常に窮屈なのだが、そうであってこそ、自分のある部分では他人を完全に無視してもいいと思える。
ようするに、「俺は俺なんだからほっとけ。その代わりお前はお前なんだから俺は何も言わない」ということである。「構わんから構うな」ということである。
こういうふうに考える人は少ない。他人に対して何かを言う権利を所与のものとしている人は多い。
根が丁寧な人はこのあたりのことに気を遣って、自分の意見という形でものを言う。そういう人でも、ついおせっかいを焼きたくなるのかもしれない。老婆心とかなんとかいって何かを言っているのを見る。仲の良い友人に対してはやっぱり何かを言わざるを得ないような気持ちになるのだろうか。僕は全然おせっかいなんて焼きたいと思わないからそういうのが不思議だ。
きちんと考えて行動している人というのは、自分の視野の範囲によるマズさがあったとしても、向上心がある限りはもっとうまくやれることにいつか自分で気がつくものだと思う。
 
私の個人主義を読んで、こういう考え方が補強された。しかしながら、私にとって漱石は他人でもあり権威でもあるので、漱石の意見をカサに着ることになっている。虎の威を借る狐状態で、どうもしっくりいかない。
 
自己が主で、他は賓である。
 
頭ではこのように考えようとするのだけど、それに身体がついてこない。自己が主で、他は賓である。そう考えているとは思えない動きをしてしまうことが実際よくある。
そもそも言葉は他人から出てくる。「自己が主で、他は賓である」も他人の言葉である。
なるほど、と思うとすぐ自己が賓になる。