中毒者の言い分

 
最近調子がわるい。僕は気分が下向きのときは体調がわるいことにしているんだけど、それでいうとなかなか体調がわるい。
これは裏を返せば、自分の気分を上向きにできれば、わるい体調を解消できるということである。実際僕はこれまで何度も崩した体調をこの方法で元通りにしてきた。僕は僕にとっての名医なんじゃないかと思う。
気分が下向きの時は、何がその原因になっているのかを落ち着いてよく考えてみれば、だいたいそれのちょうどいい原因が見つかる。
ここで大事なのは根本の原因に首を突っ込まないことだ。根本の原因、つまり気分が落ち込む元凶については、考えたところで一朝一夕で解決できるはずもなく、たぶん百朝百夕でもどうにもならない。その穴を覗けばもはや落ちていくしかない。
だから、気分が滅入っている原因を仮構するのが得策である。少しの努力でなんとかなるちょっとした悪習なり悪行を自分の生活の中から見つけ出し、それを改善する。間違っても真実など追求してはならない。勘さえよければ真実などはこちらから追い求めるまでもなく目に飛び込んでくる。そんなものに大切な時間とその時間を大切に感じさせてくれる気分を煩わされてはならない。
賢明なわれわれは仮構したプチ原因をつぶすことで、鬼の首を取ったような大騒ぎで歓喜し、気分を上昇軌道に乗せるのである。では始めよう。
僕はここ2週間、ほとんど本を読んでいない。どうやらそれで気分が落ちているようだ。自分はいつの間にか活字中毒になっていたのかもしれない。この線でいく。
一度考えることが見つかるとある程度しっかり考えるようにするのがコツである。頭を使うと正確に物事を捉えたような気になれる。このようにプラシーボを駆使していく。
僕は活字中毒というより、知性的文章中毒なんだと思う。何でもいいから本を読んでいれば気分が整うかといわれればそんなことはないのである。成る程と思えたり、それはそうだけどこれは違うんじゃないかと考えたりできる読書じゃないと、精神衛生上の意味はほとんどない。
知性的文章というのは考えた気にさせてくれる文章と言い換えることができる。僕の中で知性的というのは大方そういう意味である。
考えた気になるというのは自分の精神生活においてかなり重要な位置づけになる。
しかし、考えた気になる考えた気になるといわれていてはあまり気分が乗ってこない。「考えた気になる」の《気になる》には、実際にはちがうというニュアンスが込められたりもするからだ。だけど考えたかどうかというのはアウトプットしない以上は自分だけの問題に終始する事柄である(だからこそ僕は考えるということが好きだ)。
だから考えた気になるの気になるは隠せる。隠すというのが人聞きわるいのなら、こう言い直そう。記述を省くことができる。その「考えた」が本当かどうかなど誰にもわからないのだから。他人にはもちろん、ある程度から先は自分にもわからない。
「考えた」といったり、「知性的」という言葉をつかって自分の気分がよくなるのならば積極的にそういった言葉をつかっていけばいい。僕は気分がよくなるのでそうしている。
ただこれは単に自分を誤魔化したりよく見せようとしているわけではないことにも注意が必要である。実際に僕は本気で「考えた」や「知性的」という言葉を使っているわけではない。まあ、本気といえば本気なのだが、それにしてもレベル分けをしつつの本気なのである。
僕にとってより大切なのは、こういった諸々を踏まえつつ「考えた」という言葉をつかう態度であったり、それを説明する姿勢(言葉づかい)だったりする。
そういう時、もっとも考えている気になれる。物事を、先入見なく、正確に捉える、これはいかにも知性のなせる業という感じがある。それを心がけるのである。この部分にこそ、もっとも気持ちいい要素が隠されているはずである。あらゆる客観的な主観を排して、純然たる主観に到達するのである。これを則天去私という。
解決困難な大問題に対処するには、解決可能な小問題を解決して、解決した感を得るのが効果的である。
僕は夏にだけ喫煙する習慣を持っている。僕にとって夏の暑さは耐えがたいので、そのイライラをタバコのせいにすると忍びやすいからだ。自分にはどうにもできないことが原因でイラついているのではなく、自分自身のすることが原因でイラついているのであればまだしも堪えようという気にもなれる。そのような工夫に近いものが考えさせる読書、知性的な文章を楽しむことにはある。
秋だからというのではなく、何でもいいからというのでもなく、僕にとってタメになる知性的な読書を僕はしていかなければならない。そうしないことには体調いい状態をうまくキープできないので。