わからないということ
イキってジャズを聴き始めてからひと月が経った。
わずか一ヶ月前のことなのにきっかけがなんだったか忘れてしまったのだが、とにかくジャズを聴けるようになりたいと思って、毎日のスキマ時間にジャズを流した。流したといってもアイフォーンのイヤフォーンで聴くのが主なのだが。
アップルミュージックを使ってジャズを聴くうちに、ジャズが好きになってきた。初めのほうこそヒップホップに引っ張られガチだったのが、今や自然とジャズを選ぶようになった。ウッドベースのボンボンボンいうのが癖になってきた。
新しい音楽の趣味が始まったようですごく楽しい。本当の聴き始めより、ひと月たった今ぐらいのほうがジャズに対しての気持ちが強いと思う。最初は正直なんだかよくわからなかった。今もよくわかっていないにはちがいないが、わからないなりに聴いていて楽しいというのが、しいてそう思おうとしないでもちゃんとある。好きな曲もはっきりしてきた。基本テンションが低く、突然元気になったりする曲がおもしろい。
まだ知らないだけで知るとおもしろいことは無限にある。専門家にならないでも、かじってみるだけで十分に楽しめる。
サッカーをみるのも、映画をみるのも、本を読むのも、なんでそれを始めたのか今となっては謎なんだけど、もはやそれなしの世界というのは僕には想像もできない。
なにか目的があってそれらのことに時間を使っているわけではなく、それをすることそのものが目的なんだけど、少しずつ、目的の幅が広がってきたりもする。
奥の深さみたいなものは始める前から漠然と感じていて、それがあるからこそ始めようと思ったのだけど、だんだん奥の深さを実感してくる。どれだけみても、どれだけ読んでも、どれだけ聴いても、到達点が見えてこない。
逆に到達点が見えたらすぐに飽きると思う。自分の方で適当に到達点を決めて飽きるという手もあると思うが、それをするにはもったいないと思わせる作品が次々出てくる。
そういう作品に共通するのは、よくわからないということだ。わからないなりにおもしろく思うから、不思議だし、わかりたいと思わせられる。見たり読んだり聴いたりするのは受動的な営みだが、同時に、主体的にも取り組みうる。わかるわかるだけで出来ているものに対して主体性を発揮することはできない。
わかりやすく作られているものだけで満足できるならそうすればいいと思う。べつにいいわるいではない。主体的に取り組むとかいうと、なんとなくいいことのような気がするけど、そもそもが受動的な行為でのことなので、そんなにえらいものではない。ただの嗜好にすぎない。
嗜好が絡んでくる場所でえらそうにするというのは、ひとつのプレイとしてなら成立するけれど、 本気で堂々とされるとやっぱり辟易する。
それでも、プレイとして堂々とする以上は、とにかく自信満々でいてくれないと、それを受ける人までまごまごさせられることになるので、プレイをプレイとして感じられない人にどれだけ辟易されようと、プレイヤーとして自認する以上は、頑張って威張っていかなければいけない。
ってなんの話だよ。
イキってジャズを聴き始めた、とか言ってる場合じゃないって話。音楽なんてどこまで行っても趣味にすぎないんだから、おのおの好き勝手やればいい。
この世界に百兆個あるといわれる面白を少しでも多く少しでもつよく味わおうとすればいい。