インヒアレントヴァイス(2ヶ月ぶり2回目)

 

映画を見ていると、映画を見るときの方法で映画を見るのが普通になる。

ちょっとナニ言ってるかわかんないと思う。解説しよう。
映画を見ているとだいたい登場人物が出てくる。登場人物が出てきたらだいたいその人物は何かを喋る。いわゆるセリフというやつだ。
つまり、だいたいの映画を見ていると、人が出てきてセリフを喋るということになる。
映画を見ないで暮らしていても人が出てきて何かを喋ることはある。それは意味のあることだったり、意味のないことだったりする。それを判断するのは誰かが喋っているのを聞いている自分自身だ。その都度、自分にとって価値があるかないか、価値があるとしてそれは大きいか小さいか、そういうことを無意識に判断しながら相手の話に耳を傾ける。
しかし、映画の場合はちがう。一番多く登場する人物(だいたいの場合は主人公)が何かを喋れば、それはセリフで、映画内の物語に関わりがあるし、その登場人物がどういうキャラをしているかを表現していたりもする。映画というのは2時間そこらの短い時間しかないので、最初の10分でキャラが掴めるようでないといけない。だから、たとえ何気ない会話でもセリフがもつ役割は大きい。意味のないセリフはほとんどないし、そういう前提に立って見るほうも映画を見る。
つまり、映画内に言葉があれば、それは聞き流すことができない。とりあえず集中して耳を傾けないといけない。
「とりあえず集中してセリフに耳を傾ける」、これが映画を見るときの方法で映画を見るということだ。人物が喋れば「とりあえず」集中する。重要かどうかの判断はしないしできない。
このような映画の文法に沿って映画は見られるし、たぶん作られてもいる。セリフがあれば全員それを聞くし、無駄なセリフというのは極力減らそうとする。見るほうの集中力も無限にあるわけではない。無駄なセリフを聞かせている場合じゃない。
ただし、セリフにグラデーションのある映画がある。あまり多くないが、そういう映画はたしかにある。
登場人物がウソをつく、考えてもいないことを言う、考えていることを言う代わりに瞬発的に感じたことを言う、考えていることを相手に伝わらない方法で言う、ジョークに紛らす、などの方法で、登場人物に喋らせる。
そういう言葉に対してはとりあえず集中するだけでは足りない。たしかに、集中して聞きさえすれば、なんといっても言葉を喋るのだから一応は成立する。しかしそんな成立に意味なんてない。映画として成立しているから映画を見るわけではない。遊びとして成立するから遊ぶわけじゃないのと同じで、とりあえず遊ぶとか、とりあえず映画をみるとかいうのは成立を目的としている点でナンセンスだと思う。
だから、そのような「仕掛けてくる」映画に対しては相応の心構えをしないといけない。とりあえず集中するのに加えて、セリフのグラデーションを判断しながら見ていく必要がある。そうやって判断しながら見るというのは映画の見方というよりは生活上のそれに近い。
ポール・トーマス・アンダーソン監督の『インヒアレント・ヴァイス』を見てそういうことを思った。この映画ではコメディとシリアスが交互に表れる。しかもコメディのテンポ感でシリアス部のセリフが喋られるので、油断していると笑って済ませてしまうことになる。しかもそれでコメディとしてきっちり成立しているんだから始末におえない。ビッグフットが草食うシーンとか、文脈を切断すれば笑える。
パッと見で笑えるけれども、ちょっと考えるとグッときて、もうちょっと考えるとやっぱり笑えるというシーンが連続している。
笑ってみてもいいし泣いてみてもいい。判断はその日の気分に委ねられている。
 
 


『インヒアレント・ヴァイス』予告編 - YouTube

わりとバランスが取れてる予告。

 

 


映画『インヒアレント・ヴァイス』予告 - YouTube

コメディ全開の予告。