あざとさに対する感度


世間では「あざとい」といって何かを厭わしい目で見るような場合がある。
僕にはその意味がわからない。
やりすぎとかドヤ感とか狙いすぎとか衒ってるとか、そういう負のニュアンスの綜合だということはわかるんだけど、あざとくてなにがいけない?と思ってしまう。わかりやすくポイントを示すのはサービス精神の発露だ、むしろ評価すべきだ、と思う。
言わずもがなのことは言うなよという風潮が僕にはわからない。わかってることはどんどん言っていけばいい。そこから話が広がればオールオッケーだと思う。経験上、わかってないことばっかり言ってても話は広がらない。
たしかに、わかってんだかわかってないんだかというキワの辺りをうろちょろするのが会話としては一番たのしいんだけど、それこそわかってるテイでないと話が進められない。謙虚さも度を過ぎると失礼になる。相手に退屈な会話を強制するなんていうのは無礼の極みだろう。
そもそも理解してるアピールのなにがわるい? もし内容が間違ってたとしても相手に誤解を正す機会を与えてやったことになるし、お互い間違いに気づかなかったらそれはそれで会話としては成立する。
ただもし間違いに気づかれてしかもそれを指摘されなかったなら、それは相手との関係が築けてないということなので反省しましょう。

「あざとい」の反対は「さりげない」だけど、世間のさりげない信仰には強烈なものがある。全然さりげなくない。
あざとい一辺倒では鬱陶しいけれど、さりげない一辺倒でも同じぐらい鬱陶しい。
あざとい一辺倒の場合は意識的というか意図が感じられる分、それこそ会話の流れで調整する余地もあるけど、さりげない一辺倒の場合はほとんど習慣化された態度になっていて、調整の余地がなかったりする。バランスをとりたいと思ってもままならないし、あざとさを悪だと決めつけられると結構ゲンナリしてしまう。
自分の立場が善で、それ以外は悪だというキビしい態度をオトナにされてしまうと正直かなりツラい。
自分ルールをつくるのはいいけど、ルールNo. 1には「このルールは自分にだけ適用する」と書いておいてほしい。
本当にさりげない人は自分ルールをいかにもさりげなく守っている。僕はそういう人が好きだ。
あざとくないだけではさりげないことにはならない。さりげなさを勘違いしてる奴なんか大嫌いだ。


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