何事もコンディションに応じるということ
自分が面白いと思う物事は体調のよさに支えられている。
面白いことのほとんどはある程度の負荷がかかる。そういう負荷がかからないと、何か物足りないということになるんだと思う。無条件に、何の労力もなく、ただただ与えられるだけの面白さは、いくら量があってもそこまで楽しくない。何かを失うことで別の何かを手にするようなゲームがゲームであって、望んだものが望んだ瞬間に手に入るようなゲームはゲームではない、みたいなことを思う。ある程度の負荷、自分が差し出せる範囲内の負荷が、結局、あらゆる享楽を享楽たらしめる。ファンをファンさせる。
しかし、体調がわるいときには、面白いことに伴うその負荷が邪魔くさい。苦痛や倦怠に気をとられて、まず楽しもうという気持ちにならない。道があれば黙って最短距離をとしか思えなくなる。面白を探すメンタリティは体調のよさと余暇に負うところが大きい。気力体力が余っていて、それが楽しむための能動性につながっていないとレジャーはできない。そういう能動性がなくても楽しめることが、体調のすぐれないときにはありがたい。きれいな花とか、かわいい音とか、そういう単純なtwinkleが、そういうときのやさしさなんだと思う。
体調わるいときにも笑えるようなやさしい笑い。
お笑い文化は発達しており、高次元とされるものと低次元とされるものとに分かれる。人気とはべつに〈高度な笑い/子供の笑い〉というバロメーターがなんとなくではあるが確かに存在する。そして大体のところ、高度とされるものが低次元のものを馬鹿にする。たとえば、ラッスンゴレライは人気で、面白いと思われているんだろうけど、ビートたけしによって苦いことを言われたりする。
僕はたけしが大好きなんだけど、体調わるいときにはたけしの番組とか映画とかは見る気になれないだろうと思う。一方、つけっぱなしのテレビから偶然流れてくるラッスンゴレライには、ひょっとするとちょっと笑わされるかもしれないと思う。
僕は基本的に体調もいいし、今のところ余暇にも恵まれている。実際、ラッスンとたけしだったら5百億万倍ぐらいたけしのほうが好きだ。僕には高度なものに対するイノセントな志向がある。ハイソな雰囲気とかにも一瞬でなびく。
でもそういう無邪気さだけではよくないとも思う。同情を(露悪的にならずに、それでもあえて同情と言いたい)行使していったほうがいいような気がする。体調がわるい人たちを気遣わないといけない。無視して高いところばかりを目指すとか、そういう突き詰めができない以上。
そして、体調がわるい人を気遣うときには自分のスタイルに反してでもわかりやすさを尊ぶこと。なんせ体調がいいときには体調がいいんだし、体調がわるいのは気遣われるべきことなのだから。