ザ・マスターの笑いどころ

 


映画『ザ・マスター(原題) / The Master』予告編 - YouTube

 

45秒でわかる映画「ザ・マスター」のあらすじ

第二次世界大戦の終戦後、出征兵士だった青年フレディ・クエルは、新規まき直しとして新しい職に就こうとするがどうもうまくいかない。どの仕事もはじめのうちこそ機嫌よくソツなくこなすのだが、長くは続かず、すぐに飛び出してしまう。なんといってもアルコール中毒が祟るのだ。クエルは自分が何かしらの問題を抱えているという意識にたえず苦しめられ、その意識によって片時も酒から離れることができない。その悪循環のなか、ふらふらしているうちに一隻の船へと辿り着く。それは新興宗教のマスターが取り仕切るニューヨーク行きの船だった。マスターのカウンセリング「プロセシング」を受けたクエルはしだいに彼に傾倒していき……。
 青年主人公クエルをホアキン・フェニックスが、マスターをフィリップ・シーモア・ホフマンが演じる。


この映画の醍醐味はなんといっても、ふたりの俳優の演技にある。解釈など抜きにしても、画面に繰り広げられるふたつの魂のぶつかり合いを見ているだけで十分成立する。ふたりがふたりとも感情移入することのむずかしい人物なのだが、感情移入しないでもずっと見ていられるたしかなクオリティがある。ホアキン・フェニックスフィリップ・シーモア・ホフマン、ふたりの怪優による競いあうような怪演は一瞬たりとも見逃せない。
 
この映画の構造的な面白さは、一人称視点と三人称視点が並行して展開されるところにある。空想家のクエルの空想が、それが空想世界であるというキューなしに現実世界を映すカットとつながっている。空想をまじえたクエルの視点(一人称視点)と、映画的な神の視点(三人称視点)が同じ地平に並べられているのだ。
そのことにより、一方ではマスターの魅力が最大限引き出されることになり、もう一方ではマスターの卑小さが際立つ。
クエルからみたマスターは自分を理解してくれる唯一の他人である。

しかし、マスターのテーブルスピーチもカウンセリングも簡便なノウハウの域を出ない。マスターのやっていることは引きの画で見ればままごとでしかない。
ままごとのままごと性を明らかにするという一点で押していけばコメディになる。カルトにはまらないためには、マスターも言うように「笑うことが重要」なのだ。そしてそれは三人称視点というものを導入すればたやすい。物事を俯瞰で見れば、なんであろうと笑うことができる。

この映画はその容易さにとどまっていない。コミカルな引きの画にクエルの主観を加えることにより、よくわからない映像に仕立てている。よくわからないと、よくわからないなりに迫力が出る。この映画からクエルの空想シーンを差し引けば、おそらくコメディ映画になるだろう。しかし、この映画にとって、笑うことは重要ではない。
 
ままごとというのは真剣にやればやるほど面白い。面白いというのはままごとをする人間にとってもそうだし、それを外部から見る人間にとってもそうだ。もし途中で笑いが挟まれたなら台無しになってしまう。笑いが重要なのは今や常識のようになっているが、不要な笑いもある。
主人公の青年クエルが笑うことが下手(不自然)であること、マスターが対社会的なノウハウとしてしか笑うということをしないということは、この映画が不用意なコメディ性を封じていることと対応している。
笑えるはずのことを笑えないというのは、笑えないはずのことを笑えるのと同じくらい価値があることではないか。どちらもユーモアのなせるわざであるが、なんでも笑えるようにという滑稽偏重の潮流にあって輝くのは前者である。

なにかにはまるということができないというのは、クエルの抱えている問題だった。現状からすぐに飛び出したくなる。すべては通過点にすぎないという強烈な意識が、彼をいてもたってもいられない気持ちにさせる。マスターは自分の問題を引き受けてくれるのではないかという気がするのも、結局は彼自身の落ち着かない気持ちから来ている。実際のところ、マスターが簡単なノウハウに自己を埋没させているにすぎないとしても、クエルが自身の負担感からそんなつまらない人物に回収されているだけだとしても、彼はマスターに惹かれることを回避できない。クエルは自分の空想の世界に他人を招じ入れたい一心でマスターのもとにとどまる。
 
道の真中に寝転ぶのが好きな人でも、だれかがいないとそんなことをあえてしようと思わないだろう。叱責されるか笑ってもらえるかしないと収まらない衝動は、内心の衝動とはいえないのだろうか。
ハウツー本に書いてあるようなノウハウだけを駆使して他人と渡り合う人物は「からっぽ」だと言い切ってしまっていいのだろうか。
笑うということは、それらの考えを前に進める結果を招きはしないか。はまらないようにはまらないようにと注意するそれらの動きによって、別の何かにはまっているのではないか。
 
映画の最後でクエルは、ままごとをままごととして実行することで、一緒に寝る女と笑う。笑い合うのではなく笑う。笑うことは重要なことではないが、それでも、諦めたように笑うのである。
自分自身との和解が世界からの他人の排除につながることを暗示するかのような笑顔。ぞっとした。
最後の泥人形は説明がすぎるように思えるんだけど、あれがなかったら本当にわけがわからないことになるか。

でもポールトーマスアンダーソン監督の映画は何度も見られるように作られていると思うし、一度で掴もうとしない方がいい。どうせ理解できないと思って見ると、むしろその方が腑に落ちやすいんじゃないかと思う。