生まじめと不まじめについて

 
「生まじめ」と「不まじめ」というのはコインの裏と表に喩えられる。
生まじめというのは単体で成立する観念ではなく、不まじめとセットになっているものであり、逆もまたしかりだ。
ふたつの相反する観念はつながっていると考えると、まさにコインの裏と表の関係と同じである。
片方が見えているともう片方は見えない。不まじめの側が見えている時、同時に生まじめの側を見ることはできない。鏡などの道具を使わないかぎりは。
コインの裏表だとすると、どのように生まじめが不まじめに変わり、不まじめが生まじめに変わるのだろうか。
また、スイッチする瞬間はどうなっているのか、回転するとしてそれはどのように回転するのか、コイントスの要領で回転するとして誰がコインをそのように投げるのか、コインの持ち主が投げるとしてどういう動機でコイントスをするのか、そもそも生まじめと不まじめはコインの裏表といえるのだろうか、といった疑問が出てくる。
僕は思うのだが、ふざけるというのは生まじめな取り組みである。なぜならふざけるというのはふざけてはいけない場でこそ成立する行為動作を指すからである。ふざけていい場所でふざけるのはふざけるとはいえない。場所の要求に応えている時点でそれはふざけていない行為だということになる。ふざけていい場所でガチになることがこの場合はふざけるという言葉にふさわしい。逆もまたしかりで、まじめな場所でふざけるということがふざけるという言葉にふさわしい。たとえば葬式で焼香をパラパラ投げる行為などはふざけるの名を冠するにふさわしい。あかんことであるが、それがふざけるということには不可欠だ。あかんことをするというのはストイックな行為になることが多い。大体の場合、それをしたことによってとんでもない不利益を被ることになるからだ。そんなことにかまわず行為することがふざけるということであり、そういった姿勢を指して生まじめだというのだ。
僕は生来の不まじめさが祟ってふざけられないことが多い。不まじめというのは許されたことだけをすることである。許されないことはしない。なぜならそれは許されていないからで、なぜ許されないのかということを考えることはしない。そんなことをしても無駄だと思うからである。無駄なことはしない。これは不まじめな態度である。こういうと不まじめがわるいと言外に言っているようであるが、不まじめがわるいわけではない。むしろ不まじめはいいことである。誰だって自分の親の葬式でふざけられたくないし、焼香を投げたりそういうことをしようとしない参列者はいい参列者である。
ここで気をつけないといけないのだが、自分さえよければそれでいいと思って他人の親の葬式でふざける奴は生まじめではない。当然不まじめでもない。他人の親の葬式で焼香投げつけつつ「ポンポンポンポン」と絶叫するギャグを思いついてしまい必死で笑いを噛み殺す奴こそ生まじめであり、かつ、不まじめである。そういう人間は呪われていて、自分の親の葬式でも、涙を流しながら笑いを噛み殺さなければならない羽目に陥るはずである。当人はそのことを知っていて、自分の生まじめさをどうすることもできないと知っていて、実際に有効な方策をとることができないで、とりあえずそれをそのままにして暮らしている。不まじめなのである。
 

 

イロニーの精神 (ちくま学芸文庫)

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