2015年のクリスマスに読んだ本

 
先日、〈夢中になって本を読むごっこ〉を久しぶりにした。
夢中になって本を読むごっことは、その名の通り、夢中になって本を読む姿勢を競う遊びである。
電車内で夢中になって本を読んでいると、いつの間にか電車が終点に到着する。そのまま夢中になって読み続けると、電車は折り返し運転を始める。そうすると最寄りの駅ではない駅で電車を降りる羽目になる。もう一度反対方向の電車に乗ろうにも、さっきまで乗っていた電車は最終電車だったので、とぼとぼと歩いて家路につかなければならない。にもかかわらず「読みながら歩けるから結果オーライ」などと意味不明なことを思っている。街灯でほんのすこし明るい県道沿いを本を読みながら歩く。ギリギリの明るさである。ギリギリといってもギリギリセーフというよりはギリギリアウトの明るさである。それでも頑張って歩きながら読む。さっさと帰って明るく暖かい家の中で読むほうが効率的だということに思い及ばない。夢中になっているからである。
 
そうやって読むぐらい夢中になる本に久しぶりに出会った。ジャンケレヴィッチの「イロニーの精神」という本である。ジャンケレヴィッチは哲学者らしいので、哲学の本なんだと思う。ウィキペディアで調べたらけっこう難しいことを書く人らしい。「死」という本をさわりだけ読んだのだが、たしかに難しかった。僕にとっての「死」の難しさは、論理の運びが複雑なところにあるわけではなく、定義を明確にしていく哲学ならではの厳密さのことだった。哲学の本には観念に対して正確を期する幾何学的なところがある。逐語的に進んでいくから論理の歩みはいつも遅い。その遅さに慣れなければ哲学書は読めない。それにプラスして、ジャンケレヴィッチは独自の、分類されない哲学者という称号が与えられていて、用語法が哲学ならではのそれとはべつのものであるらしい。哲学の専門家からすれば、自分たちが身につけた読み方が使えないから「難しい」という評価になるのだと思う。しかし、専門家ではない自分は、その意味での難しさは感じなかった。
用語法にかぎっていうと相性もあるのだと思うが、「イロニーの精神」はジャンケレヴィッチ入門に好適らしく、実際に難しさ、読みにくさは感じなかった。とはいえ大雑把にでもいいから固有名詞のイメージを把握できたほうが読み進めやすいと思う。ドストエフスキーの長編をだいたい読んでると問題なく読めるはず。都度グーグル先生に教えてもらうのもいいけれど、グーグル先生には余談・悪友が多くて読書の集中力が持続しづらいという難点がある。
「イロニーの精神」にはアマチュアっぽい飛躍というか、音楽的なリズムがあって、読んでいて楽しい。章末の文章には焚きつけるものがある。これは扇情的といってもいいかもしれない。読書の性質上、その高揚感は簡単にはシェアされ得ないが。
 
文字の重みは、絶えずわれわれを大地につなぎとめようとしているのだが、われわれは文字の背後に、精神がひそかに息づいているのをいつも見ぬいている。だから書かれていないことを読みとるには、言われていないことを聞きとるには、沈黙がひろがっていなければならない。それでわれわれは踊るのである。ぴんと張った網の上で、過大と過小との間で、一気に飛ぼうとする飢えた精神と、ことばが意味を忘れさせてしまったほどの能弁な精神との間で。
 
文字の重み、踊る、一気に飛ぼうとする飢えた精神、
「イロニーの精神」ではこういった言葉が何気なく使われているのを何度も目にする。「沈黙がひろがっていなければならない」と「それでわれわれは踊るのである」との間につながりといえるほどのつながりは果たしてあるのだろうか。つながりがあるのか、それともつながりはないのかと問われれば首を傾げざるを得ない。しかし、文章はつながっている。楽譜上に書かれた音符が次の音符とつながっていると考えるのか切り離されていると考えるのか、それは考えかたの問題にすぎないが、音楽を聴けばつながっているととらえざるをえないのと同じことである。つながりがあるのかないのかわからないが、つながっているのである。
 
「イロニーの精神」はかなり意識に寄り添ったものである。その意識量を計測すれば意識「過剰」と受け取られかねない。しかし、その見た目は意識過剰ではない。意識過剰の見た目にとどまるのは意識の「不足」であるという高い意識がある。「意識高い」と表現されるものは、意識の高さによって批難されるのではない。当人は意識の高さによって批難されると感じるかもしれないが、それに反して意識の低さによって批難されているのである。ほんとうに高い意識はけっして高く見えないはずである。高く見えることをおそれるわけでもない。したがって、意識の高さを隠そうとするのともちがう。高さを隠そうとするのではなく、たんに高く見えないのである。「高く見えないものは実際に高くないのだ」と言われれば「そのとおりだ」と応えるはずである。高い意識は実際には高くない。
 

イロニーとは、島は大陸ではなく、湖は大洋ではない、と知ることである。

 

誠実さのゆえに死なないためには、われわれは陰険にも、狡猾にもならざるを得まい。
 
狡猾さは自らの狡猾さを認める。自分が狡猾であると知っている精神は陰険である。
陰険でなければ生きられない。だからといって生き残るために誠実さを捨てるわけではない。ただ生きるのであり、それを知りつつ、知らないふりをして生きるのである。ここには適切な距離がある。それは本能とイロニーとの距離でもある。騙すために嘘をつくのではないし、矛盾はそれが矛盾であると説明されるために矛盾なのではない。騙すことと嘘の間には距離があるし、矛盾と矛盾であるとの説明の間にも距離がある。イロニーとは距離である。イロニーとは、イロニーとイロニー以外との距離のことであるだろう。騙すことをこちらにおけば、あちらにあるのはイロニーである。矛盾をこちらにおけば、あちらにあるのはイロニーである。嘘はイロニーではない。「嘘は」という文章のはじめ方をする場合、嘘以外のものがイロニーである。
そうなると問題はイロニーである。
この本においてよく見られる「イロニーとは」という文章が指し示すのは一体何であるだろうか。イロニーをこちらにおいてしまって、あちらには何があるのだろうか。「イロニーとはイロニーである」というトートロジックな文章にはイロニーがなく、そのことをもってイロニーがイロニーでなくなるとするならば、イロニーとは距離であるということは、とりもなおさず、イロニーは距離ではないということと同義ではないか。これはめちゃくちゃな論理であるが、ある意味では正しい。正しいというより、正しいことにもできる。イロニーはイロニーであってイロニーでないということは、いえるのである。当然、いえるからといってそうだというわけではない。いうことと事実との間にはつねに決定的な相違がある。
その相違を逆手にとるのはいかにもイロニストらしい振る舞いである。しかも、イロニストらしく振る舞おうとする人がいるなら、その人はイロニストではないということもいえる。ただ、それを知ってなおイロニストらしく振る舞おうとする場合、その行為をどのように説明できるだろうか。こういう問いは陰険である。
しかし、われわれはこの陰険な問いを陽気に問うことができる。そこにはつながらないもの、ことばの重力からの逃避、すなわち飛躍がある。音楽においてある音符から次の音符へとジャンプするのと同じことである。音楽は狡猾な真実である。そうと知りつつ音楽を楽しもうとすることは、余人は知らず、僕と僕の音楽には是非とも必要だと思った。僕は音楽に触れようとするとき、イロニーに背を向けようとしていたことに気がついた。それでは後ろ手に音楽に触れるのと同じことだ。
感情と認識を切り離すべきではない、頭ではそうとわかっていても、つい感情に加勢したくなってしまうのだが、そもそも認識はそんなにつよくないし、感情は誇り高く、不当な助太刀など良しとしないはずである。
 
イロニーは、傾聴すべき呼びかけであり、われわれにむかって、「汝自身で完成させよ、汝自身で修正せよ、汝自身で判断せよ!」と呼びかける。

 

イロニーはまじめで骨の折れる経験の滲透を許さないのではない。否、断じて許すのである。
 
この「断じて許す」という表現が好きだ。
まじめな経験、ほとんど徒労にすぎないそれを断じて許すのは、向こう側にあるイロニーでしかあり得ない。まじめな経験は徒労を許さないが、それにもかかわらず、まじめな経験はほとんど徒労でしかない。それでも、徒労だとしても、まじめな経験は必要だ。
しかしまじめな経験が自分で自分のことが許せないのだから、要求されるのはやはり他人である。僕は狡猾にも誰かにとってのイロニーでありたい。