「サキ傑作集」の奇妙な読後感について

 

「サキ傑作集」 を読んだ。

 

サキ傑作集 (1981年) (岩波文庫)

サキ傑作集 (1981年) (岩波文庫)

 

 

この世界にはさまざまな小説があるが、異色の小説というものだけはない。
とにかく読めば読むほど、小説はどこかのジャンルに片付けられる。もし誰もが読んだことのない空前絶後の小説があっても、それがつまらない作品であれば読者のところまで届かないだろうし、反対にすばらしい作品であれば、その小説は一挙にひとつのジャンルになる。
たとえば、カフカの小説はまさしく異色だが、カフカの名前とともに彼の小説はほとんどすべての小説読者に知られることになった。もはやカフカの小説は異色ではなく「カフカ」である。
しかし、それまでカフカ以外の小説をじゃんじゃん読んでいて、カフカを読んでいない小説読者がいたとして、彼または彼女が何かのきっかけで、はじめてカフカの小説を手にとって読んだところを想像してみると面白い。その時、カフカについての前知識はなければないほどいい。おそらく「何だこれは」とびっくりするだろう。つい「これは異色の小説だ」と呟いてしまうかもしれない。
僕が「サキ傑作集」ではじめてサキを読んだ感想はそれに近い。サキの書く短編が「異色の小説」に思えてならなかった。
サキの面白いところはその違和感にあった。話のオチの付け方やオチ自体はそこそこ平凡なのだが、話の短さに反して人物描写が綿密なのだ。長編小説、少なくとも中編小説のような落ち着いた語り口をしていながら、パタリと終わってしまう。読んでいてなんとなく打ち切り感があるのである。外部のどうしようもない力がはたらいて否応なく終わらされているように感じられるのだ。それでいて構成自体はこれしかないという完成度を持っている。物語は短くまとまっているが、それに文体や視点の置き方がともなわないのである。
解説を読んだところ、モーパッサンという短編の名手がいて、サキの小説はそれに近いらしい。「短くまとまっていて、言葉を精選し、意外な結末を用意する」その特徴の付け方はわかる。「同時代の小説家の怪奇趣味の影響もある」それもわかる。しかし、それらの言い方だったらエドガー・アラン・ポーでもいいし、おそらく短編怪奇小説というジャンルではポーのほうが長じているのだろうと思う。
サキの小説にはなんだかわからないところがあり、そのなんだかわからないところが面白いのである。何を目論んで小説を書いたのかがさっぱりわからない。その当惑は、読者を楽しませようとするサーヴィス精神が見られることによって尚更つよくなる。そういうサーヴィスがなければ、もっとも単純に片付けられる。「書きたいものを書いたもの」。
オチに注目させようとしているが、その実、本質はオチとは無関係のやや皮肉な人物描写にあるようにも思えるし、話全体の寓話性にあるようにも思える、と思わせようとしているようにも読める。
おそらくサキは読者をこれっぽっちも信用していない。そして、爪の先ほども信用していない読者にむかって、彼らを喜ばせようと短編を書いているのである。そのうえ、そういう小説家にありがちな開き直った職業作家らしいところも見られない。なぜなら描写はあくまで綿密で、不必要だと思えるくらいに言葉を選んでいるからだ。なぜこんなものが今僕の目の前にあるのかと、不思議に思わずにはいられない小説として「サキ傑作集」は存在している。ページを開けば、ちゃんと言葉が書いてある。