質問上手は生き上手


夏目漱石に「夢十夜」という短編がある。「こんな夢を見た。」という文章から始まる夢の話を十並べた小説で、幻想小説として有名な作品である。夢の話というと、退屈な話の代名詞にもなるぐらい、一般につまらないと思われている。現実感というものが物語にも求められる昨今では、リアリティから程遠い夢の話は「そんなものを読んでなんになる?」という安直な問いに叩き潰されがちだ。ありそうにもないことをいちいち読んでいられるほど、現代人は暇ではないのかもしれない。

生活していてもままあることだが、答えなくてもいい問いが発されることがある。「そんなものを読んで何になる?」というのは実質的に答えさせるつもりのない問いだ。小説の側もそんな問いに答える必要はない。その問いはだれか人にむかって「お前が生きていてなんになる?」と訊くようなもので、質問の形をしていても質問の体をなしていない。相手への礼儀がなってない質問では、答えを引き出すことはできない。相手が答えられないことをもってして論破とするのではわびしい。だが、どうも小説はこの無礼な問いを浴びせかけられる運命にあるようだ。小説を読まない人は、小説を読む目的、つまりその面白さを本当に理解できないからだ。無邪気な疑問を端的な質問にすると、上のような無礼をはたらく結果になる。
なにも小説にかぎったことではない。僕はパチンコの面白さを理解できないのだが、パチンコが好きな友人に似たような質問をすることがある。「それのなにが楽しいの?」という質問だ。これもひどい質問で、こういうふうに訊いて答えらしきものを引き出せることは少ない。答えを引き出したければ質問する側でそれなりの工夫をしなければならない。オイタをした子供を叱るときにも「なんでそういうことするの?」などと言ってしまいがちだが、いいやり方とはいえない。頭ごなしに叱るのはよくないというのが頭にあるから、当人の言い分を聞こうという態度を見せる。そこまではわるくないのだが、「なんでそういうことをするの?」と聞いても不毛だ。屁理屈をこねるのがうまい子だけが生き残るという結果になるだけだ。それに、大人の側も完璧な裁定者にはなれないのだから、言い分を聞くという余地がそのまま好き嫌いの印象や自分自身の体調・機嫌の良し悪しに左右されないとはいえない。「そういうことをしてわるいとは思わないの?」という質問をかけるべきだ。わるいと思っていない場合はそれがわるいことだということを理由とともに教えなければならないし、もしかするとそれをするにいたった流れや本人の言い分があるのかもしれないから、それを聞き出すことも考えないといけない。わるいと思っている場合には反省をうながすようにする。
イエスかノーで答えられる質問というのは、誘導する側面があるものの、答える側が答えやすいのもたしかである。パチンコの話に話を戻すと、「やっぱりアタリが出る瞬間が楽しいの?」などとなんとなく見当をつけてその魅力に迫るようにすると、意味のある答えを得られることが多い。イエスにしても、そのデティールについて聞かせてくれるかもしれないし、ノーだとすると、自分には見当のつかないような部分にその魅力を感じているのだということが明らかになる。それはパチンコについて知ることであるとともに、その友人を知ることでもある。一石二鳥とはこのことだ。

質問の仕方についてまとめると以下のようになる。

生きててなんになるの?(アホの質問)
生きててなにが楽しいの?(愚かな質問)
生きてると睡眠とかできて楽しいよね?(普通の質問)
生きてるの?(奇妙な質問)
生きるべきなの?死ぬべきなの?(唯一の質問)

相手を選び、質問を選ぶのは大切なことだと思う。普通以上の質問をしたいと思えば、ある程度それについての知識が必要だ。その意味で、生きていくのに必要な知識は案外少なくないと僕は思う。それが学校でたいして面白くもない勉強をする理由なんだと思う。いろんな物事に見当をつけられる能力を身につけることで、他の人々との日々を楽しいものにするために。

たとえば、一冊でも「異常に面白い」と思える小説を読めば、ほかの小説の面白さにもだいたいの見当がつくようになって、「夢十夜」が好きだという人にその魅力を引き出すような質問をかけることもできるんだろうと思う。 



文鳥・夢十夜 (新潮文庫)

文鳥・夢十夜 (新潮文庫)