散文的な読み方と主題的な読み


誰しもが自分の考え方や人生への接し方に自信を持っている。面と向かってそう言われると、あるいは、自信があるわけではないと応酬するかもしれない。しかし、それは自分の考え方や人生への接し方について自分というものを離れて見ることがないだけであって、それらはあまりに深く自分というものに結びついているために、観察の対象にならないだけである。自分の顔が気に入らないという人も、自分の顔が気に入らないと見る自分の目については何らの疑問を差し挟むでもなく、恬然としている。自分の顔や性格のある部分について自信がない人でも、それを自覚しているという一事をもって、それを自覚しているという自らの人格面には安心していられる。

少し話が大きすぎるようだから、読書を例に考えてみる。何かの本を読んでそれを面白いと思うとき、自分はその本のことを理解し得たと考えるはずである。しかし当たり前のようだが、完璧な読書などはありえない。各自、読み得たところを読んでいるにすぎない。それでもその本を読んだことの満足感だけはたしかに感じられる。僕は夏目漱石が好きで読む。僕は自分が漱石の完璧な読者であるとは思わないが、相応の読者であるとは思う。漱石の書くものには漱石の真率な人柄がにじみ出ていて、読んでいるとそれが感じられるからだ。それは細部に宿っていて、漱石を読む以外にすくい取る方法のないディテールである。書かれたものを読むというのはそういったディテールの積み重なりを味わうことでもある。それは漱石が小説を書く際に悩んでいた主題とは直接の関係がない。関係がないと言い切ることはできないのだが、それでも、直に関係しているというよりは実態に近いのではないかという気がする。少なくとも、漱石の問題意識や悩みを共有するという手続きを踏まないでも感じられる部分というのは、漱石の書くものにはふんだんに見られる。そういった豊かな散文的な良さがなければ、自分は漱石を今ほど好きにならなかっただろう。漱石の主題は古めかしい。もちろん古めかしいなかにも普遍的で現代に通じるような問題意識というのは随所に見られ、その上、その提出方法は2015年現在でも類を見ないほど洗練されている。「それから」の主人公代助ほど一面の真実を雄弁に語りつつ、もう一方の真実に押しつぶされるという皮肉を鮮やかに演じるキャラクターはない。彼のダメ人間ぶりというのは太宰治の書く愛すべき人物の比ではない。代助は自意識の深さに悩まない。彼の悩み・破滅は外界からもたらされるにすぎず、そこに潔さがある。潔いダメ人間ほど手の付けられないものはない。僕にはそれが現代のヒーロー像と正確に照応しているように感じられる。「それから」について書かれたものではよく彼の破滅について語られるが(たしかに「それから」における代助の破滅の印象は鮮やかである)、代助は偶々うまくいかなかったというだけのことである。主題を無視して読むことができたなら、物語を軽視することができたなら、言い換えれば「散文的に代助を読み」得たならば、確実に彼は彼の人生におけるヒーローである。

こういったことは正確無比というのからはほど遠い。散文的に代助を読むというのは、上記の例を正確に表現しているとは言いがたい。せいぜいが「反・主題的に代助を読む」といったところである。しかし、言いたいのは気持ちの上で散文的に読むということである。言い訳になるが、散文的に読むというのは言い表しにくいことである。何かについて何かを言おうとすれば、かならず主題的な読みが入り交じることになる。

散文的な読み方をしながら、それを伝えることはできない、そういうことが実人生でも起こる。主題的な出来事を伝えることで散文的な読みを相手に期待するということがコミュニケーションの根幹にある。アンチ・ディスコミュニケーションとしてのコミュニケーション。
しかし個人的な満足感は散文的な読み方のうちにある。この散文的な読み方というものに対する自信が、人格面への自信と通底している。それはあくまで主観にすぎず、それが主観であるということに気づいた時点で失われる体のものである。主題的な読みではないから他人に説明することも難しい。自らの散文的な読み方の部分は感受性として扱われるのが常であって、自分の感受性に対して疑問を持つひとはやはり少ない。幼い感受性でしかないと過去の自分を見、それを否定するのは、そのこと自体が成熟された感受性からほど遠い。説明できない自分の感情を取るに足らないものだと感じることはできない。むしろ説明できないということが感情生活の上では大事なものであるということの証明になるのではないか。

主題的な読みに回収されないこと、散文的な読み方を保持しようと努めることが、小説の上では是とされる。他人からは根拠のない自信にしか見えないその感じ方は、それでも肯定されなければすまない。しかも、反・主題的な読みとしてではなく、あくまで散文的な読み方として肯定されなければすまない。それを肯定できるのは散文的な捉え方に他ならない。散文的な読み方を肯定するために散文的な読み方がなくてはならないというのは、いかにも堂々巡りである。しかし、ぜひとも必要である。他人にも自分にも説明できないあるものに対して自信を抱くために、根拠の無い自信を醸成する場として文学はある。ちょうどエンジンにとってガソリンが必要であるように、僕にとって文学は必要だ。最近はガソリンを使用しない電気自動車という便利アイテムも出回っているようだが、それはそれとして。