黙っているだけでは慎重さは身につかない

 

僕は普段から黙っていることのほうが喋ったりしていることより多い。

では黙って何をしているかといえば、べつに何もしていない。何もしていないといっても無になっているというわけではない。いちいち人に言うことでもないような雑多なことをしている。雑多なことで、しかも人に言うようなことでもないことをしているというのは、何もしていないと言い切ってしまっていいことだ。僕の基準だが、遊びに行く・音楽を聴く・映画を見る・本を読むあたりは、いちいち人に言うまでもないという点では同断だが、まだしも何かしているという気になる。仕事をしているというのは人に言っても恥ずかしくないことだが、何かをしているという気にはならない。

喋ったり、ラインしたり、書いたりすることというのは何かしている感じが強い。黙っているときには何もしていないのだから、その反対の状態の時には何もしていないの反対でもあるというのはわかりやすい理屈だ。不用意なことを言ったり、言わないでもいいことを言ってあとあと悲しい思いをすることになったり、何かをしていると失敗も増える。でも「PKを失敗できるのはPKを蹴る人間だけだ」みたいな言葉にもある通り、間違えることになっても、やっぱり蹴ったりなんかしていきたい気持ちがある。PKなんていうのは成功するほうが多いんだからやったほうが得だと思うし。

黙っているというのはもっとも賢明な態度だ。黙っていられるかぎりにおいて人は失敗をしない。何もしない人は失敗をしないし、失敗を避けるというのは賢明な態度にちがいない。そのため、普段からふんだんに黙っている人はさぞかし慎重さが身についているのだろうと思うかもしれないが、それはちがう。

賢明な態度をとっているかぎり、人は変化する必要をもたない。慎重さというのは試行錯誤によって身につける処世能力で、これ以上行ったら落ちる、これ以上スピードを上げたら曲がれなくなるという経験を経て得られるものだ。停車したクルマに乗っているだけで注意深い運転技術は身につかないのと同じで、黙っているかぎり慎重さは身につかないし、身につける必要もない。黙っているということはもっとも慎重な姿勢である。一生黙っていられる自信があるのなら一生黙って最高に賢明な人間になれる。一生黙っていられるかどうかというのはまずは資質の問題、そして運にも左右されることなので、決して難易度は低くないことではあるが。

黙っていることそのものは慎重なことだ。しかし、黙っていることで慎重さは身につかない。黙っているというのは何もしないことで、何もしないというのは何よりもまず変化しないのを受け入れることだからだ。