海街diaryをみた

 
 
 
 

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映画「海街diary」をみた。今年度ベスト級のおもしろさだった。いや、今まで見てきた映画の中でもベリーベスト。それほどの衝撃を受けた。カンヌで賞を取れなかったのは本当に残念。今年の審査員長がコーエン兄弟だっただけに二重に残念だった。しかしまあコーエン兄弟好みの映画かと言われればそういう映画でもなかったから仕方がないといえば仕方がないかとも思う。それでも、コーエン兄弟好きとしてはこの邂逅は悔やまれる。審査の基準に合わなかったのだろうが、基準の方をどうにかしたほうがよかったのに、と思わずにはいられない。
しかし当たり前の前提として、賞を受賞したからといってその映画がおもしろいとは限らないし、受賞を逃したからといってその映画に価値がないわけではない。海街diaryはおもしろい。おもしろい映画には価値がある。
 
海街diaryは4姉妹の物語だ。四者四様の物語が輻輳している。長女綾瀬はるか、次女長澤まさみ、三女夏帆、そして末っ子広瀬すず。一見して似ているところのない、それでもどこか似ているところのある、そして何より微妙に違っている四人姉妹が、決定的に食い違うような大喧嘩をするでもなく、ベタベタした慣れ合いをするでもなく、自然な親しみをもって生活を共にする様子が四季の移り変わりを舞台にして割合淡々と描かれる。どんな四姉妹の生活が自然なのかは、女でもなければ姉妹がいるでもない僕には本来なら分かりようがないことなのだが、大事なのはそれが自然に見えるということだ。それはデフォルメされた自然なのかもしれないが、本当のリアルな自然に興味があるわけでもないので、それはそれでべつにかまわない。僕が思う姉妹間の自然な親しみとは、近い距離でありながら線同士が交差することなく平行に進んでいくというものだ。これ以上近づく必要がないというところまでは近づき、あとは適切な距離感を苦もなく維持できる。こんなふうにお互いまったく気を遣わない関係性をスクリーンで見られるだけで十分に満足できる。新しく一緒に暮らすことになる末っ子すずには少しずつ距離を近づけていく様子が見られるが、それも無理のないようにぼちぼちと、という感じである。そして、4姉妹みんな、本当にかわいい。
物語の展開は目に見えるようなうねりを含まないが、それでも静かに進行していく。四季の移り変わりとともにすこしずつ変わっていき、変わった先が望ましいものであれそうではないものであれ、変化の影は避けられないものとして一貫して画面に映っている。新しく生活を共にすることになった末っ子すずが少しずつ家に慣れていく様子と、鎌倉の折々の季節と、いくつかの別れが、時間の流れをつねに感じさせる。「いつまでも今が続くわけじゃない」ということをそれぞれがそれぞれの感じ方で感じながら過ごす共同生活だからこそ、スクリーンに映る一瞬一瞬が光を放つ。
 
映画は「今」の積み重なりでできている。何かの瞬間はべつの瞬間のために存在するわけではない。物語上の伏線というのがあったとしてもそれは伏線の回収という出来事のためにあるのではなく、それ自体として自立した出来事としてあるべきだ。結果的に回収されることになったから遡ってあれが伏線だったというにすぎない。物語の構造理解というのはひとつの遊びとして面白いところもあるが、ストーリーというのは映画の一側面でしかない。そのことを理解した上で、映画にとってはやっぱり重要なストーリーを丁寧に紡ぎだすということがなされているから、見る方は安心して映画の瞬間に没頭することができる。余計な説明は一切ないが、かといって説明不足を感じさせる性急さもまるでないので、このあたりのバランス感覚はさすが数々のドラマを撮ってきたカンヌ受賞監督だと思わせる。
ドラマに必要なのは感情移入だ。おそらくこのあたりがコーエン兄弟の好みにあわなかった部分なのだろうが、海街diaryでも感情移入させられる場面というのは多くある。大体のドラマでの感情移入先は、主人公か、主人公と鏡像関係にある人物か、主人公の仲間で、一人か二人、多くても三人ぐらいのものだ。海街diaryでは(多くの是枝映画では)、セリフのある登場人物ほとんど全員に感情移入の余地がある。人物同士が感情的に対立する瞬間があっても「どちらの気持ちもよくわかる」というように作られていて、どちらが正しいかという見方はできない。感情同士がぶつかる場面ほど入念に、一方が正当であるという映り方にならないように気を遣っていると思う。このあたりのニュアンスを反映した撮影技術は緻密で並大抵ではない。
一方で、どちらが正しいかという見方をさせないためにあらかじめ感情移入を廃している映画もある。コーエン兄弟の映画がそのパターンだ。コメディでも、スリラーでも、そのどちらでもなくても、俯瞰の位置から人物を眺めるという距離感をつねに保っている。アプローチの仕方が異なるだけで、正しさのために映画があるわけではないという点で両者は共通していると思う。悲しみにしても喜びにしても、正しい感情なるものを探すために映画を見るわけではない。「自然な感情」というものが必要以上に持て囃されることに対して個人的に抵抗があるのもこのあたりの事情による。自然な感情こそが正しい感情だという見方に与するわけにはいかない。不自然だろうが感情は感情ではないかと僕は思う。万人から正しいとされる感情には甘すぎるところがある。そういう感情移入は進んでしたいと思わない。はじめから安易な感情移入をさせられるようなことがないと分かっていると安心して映画に没頭できる。だからコーエン兄弟の映画が好きなのかもしれない。単純に美しい画面をたくさん見られるということが第一なんだろうとは思うが。
 
美しいかどうかということだけは感情を見る際の基準になり得るが、それでも排外的な美意識というのはそれ自体美しいものではない。そうはいっても感情とそれを取り巻く知性には限界があるので、最終的には排外的であることは避けられないだろう。そこで大切になるのはイキ切らないことだと思う。途中で迂回したり、なんとか折り合いをつけて誤魔化したりすることが「感情にとっての自由」であるという逆説が、見る場合に限っては成り立つのではないか。
海街diaryで見られるような、一方の側に全的に没入できないようにするため、べつの思惑を持つ他方を同じ画面にいれてしまうというのは、それ自体がドラマチックな映像である。べつのふたりが一緒に映ることによって画面が葛藤しているのを見る、感情は一筋縄ではいかないものだということが明示される。一筋縄ではいかない感情こそが本物の感情だと自分は思う。ただし、それが本当に本物かということを突き詰めて考えることにはさしあたって興味がないし、そうやって得られた答えがフィルムに焼き付けられた一瞬一瞬より価値があるものだとは思えない。
 
 
 


海街diary予告篇 - YouTube

 

かわいいやキレイが好きなんだったらこの映画を映画館で見ないと嘘。