バードマンの話

 

このまえ見たバードマンという映画がとっても面白かったので、バードマンという映画の話をする。

バードマンという映画は、バードマンというハリウッドスーパーヒーローに変身するイケてるおじさんが、時の流れによってヨボヨボではないけどおじいさんの入り口に立っているような初老男性になって、かつての栄光を取り戻そうとしてNYのブロードウェイに進出し、演劇すなわちアート方面でキャリア二度目の黄金期を創りだそうと奮闘する話である。

おじいさんにはかなりヤバいところがあって自分には超自然の超能力が備わっていると思い込んでいる。さらには自分のなかのバードマンと対話するという完全に幻聴であるところの幻聴能力があって、いつも心のなかのバードマンに「飛べんのか!?」と煽られてる。うまくいかないこと、むかつくことがあると、すぐにそのバードマンが煽ってくる。おじいさんは完全無視を決め込もうとするんだけど、バードマンは彼の心のなかに棲んでるだけのことはあって、言ってくる内容がいちいち核心をついてるからつい反応してしまう。それでおじいさんは余計にイラついて物に当たったりする。やってることは花瓶を壁に叩きつけて割るとかちゃちなことなんだけど、本人のビジョンではそれが超能力によって為されているからなんとなく絵になる。小学生男子が好きそうな「鎮まれ俺の力…!」みたいなビジョンを持っているおじいさんなので、そういうのをスクリーン越しに見るのは結構笑える。

そういう超自然の超能力を「自分は持っている」というビジョンはスターの座についたことのある人間ならば共通してもっているもので、いわゆる自己顕示欲だとかそういう言葉で演劇人が自嘲的自己分析でよく使ったりする。しかし、そういう言葉を自嘲的に使うときの底の浅さ、というか自己分析しているようでいてその明晰っぽいビジョンに浸っている感というのは噴飯物だ。安易な自嘲表現は厳に慎まれなければならない。自分は持っているというビジョンを前提にして話を進めるべきだと思う。「私って全然ダメだし」からの「そんなことないよ」の会話の流れ。滅んでくれ。「〇〇って結局、自己顕示欲だよね〜」で終わらせるのではなく、「僕の自己顕示欲は〇〇で、」というように、そこからスタートすべきだ。

自己顕示欲というのは観客を必要とする。観客というのは他人だ。つまり他人の存在をいちいち気にかけるのが自己顕示欲の達成には不可欠であり、目的はどうであれ、他人の存在を重視して自分の方向ばかりを見ないことにつながる。「自己完結できる人間」を自負する輩は自己顕示欲を物珍しいような好奇の目で見る。そういう輩は他人のことなどどうでもいいと心底思っている。ゴミクソひとでなし野郎が。

多少歪んでいようとも、他人なしにはいられないという気持ちはゴミクソではない。問題は、多少というときの多少の程度だ。映画の主人公になる人間の歪み方の程度は、少なくとも普段の生活で見るよりも大きくないといけない。そうじゃないと面白さを感じられない。ニューヨークの中心をおじいさんがパンツ一丁で歩くから面白いのであって、若いイケメンが同じことをしてもそんなに面白くない。一方で、スクリーン越しに見て面白いと思えるほどの歪み方を日常生活で頻繁に顔を合わせる人物がしていたら疲れる。少なくとも疲れるし、わるくすれば生活が破綻する。ちょうどいいぐらいの歪み方で、ちょうどいいぐらい他人なしではいられないと思っていることが日常生活では要求される。他人なしではいられないの度合いが高まりすぎると、自然とその吐き出し方、はけ口は歪んでくる。さみしがりやさんを究極まで押し進めていったら人間はどういう形になるかということをわれわれはすでに学んでいるはずだ。

僕は絶対に歪みたくなんかない。歪むぐらいだったらはじめから他人のことなんか求めない。他人なんてしょせん他人なんだから、自分が自分のことを好きでいられるなら僕はそれでいい。そういうことをいう輩が自己完結できる人間を自負する。ゴミクズ以下の人間くずれが。

僕たちはTPOに応じた歪み方の程度を見極め、節度ある他人の求め方をしていかなければならない。でもそれがとってもむずかしい。

映画の変人ばかり見ているとちょっとやそっとのひねくれ方ではだんだん物足りなくなってくる。もっと面白いひねくれを見てみたい。もっと面白い歪み、もっと面白いねじれ、もっと面白いクソゴミクズを見たくなる。そうするとちょうどいいの位置が高めに修正されるというか、沸点が高くなるというか、程度問題がどんどんエスカレートしていく。この程度の歪み方なら全然大したことじゃないという感覚がだんだん通用しなくなっていく。自己顕示欲のたまの発露なんていうのはべつに普通のことだと思っても、クレージーに取られたりする。

 

映画「バードマン」は、その特徴的な撮影手法も相まってノンストップでエスカレートしていくような感覚がある。舞台も劇場近郊から離れないので、ひとつところに居ながらにしてボルテージが上がっていく感覚はまさにエスカレーターのようだ。

自己顕示欲から始まってジリジリと高みへ滑りこまされていき、その先で自分の分身に煽られる元スーパーヒーローのおじいさん。「飛べんのか!?」

 

 


「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」予告編(30秒) - YouTube

 

 

それから、この映画の特徴として、字幕が黄色いこと、BGMにドラムソロが使われていることがある。どっちもとてもいい感じだと思った。エドワード・ノートンもかなりキレてる。