玉虫色のモチベーション






最近、動機不純ということについて考えている。
正しい動機、清く正しく美しくという動機がある一方で、人に言っても通用しないような動機がある。だが、動機がなんであれ結果が良きものになればそれでかまわない。結果良ければすべて良しである。そもそも動機について考えなければならないような羽目に陥っている時点で、すこし陰に入っているというか、結果が望ましいものでないことは多い。それにくらべて、何も考えていない状態というのがあとから振り返れば理想的だったなあと思われたりする。たとえばコミュニケーションにおいても、とくにむずかしいことを考えずにツーといえばカーと返ってくるみたいなのが心地よいものだし、お互いそこを目指してツーツー言っていく。たまにカーと返す。ただそれにしても、とりあえずの目標みたいなのを定めたほうがスムーズに進むものだから、動機というのは自分のためにあるものではなく、こういう動機でやってますというのが相手にとって分かりいいものであるというのがまず大事なのではないか。それで思ってもいないことを言うこともあるが、それはその場で自分が選びうる最適解だと言い切ってしまってもいいと思う。問題があるとすればそれが持続可能ではないということで、そのようにして仮構したメッセージというのは発し続けることがむずかしい。すぐ飽きてしまう。だから動機というのはアップデートしていくことが不可欠だ。本腰を入れて自分の動機に向き合い、自分がどう思っているのかについて何らかの答えを生み出せたとて、それが続く保証はない。自分の考えに誠実であろうとするなら、それが時とともに変化するのを認めることは何より先に求められる条件である。それゆえに長いスパンになればなるほど動機を考え直す機会というのは多くなる。また、長いスパンになるということはそれだけ達成に時間がかかっているということでもあり、結果という側面から見ればのんきに親指を立てていられる状況ではない。変化がなく、ひとつところにとどまり続けるというのは、根気という面からは褒められべき態度であるにはちがいない。が、換気をしなければ空気は悪くなる。そういう時、現状を腐ったものだと考え、これを一気に打開したいという欲が生まれる。現状に中指を立ててちゃぶ台をひっくり返そうとする衝動。このような蛮行は決断するということの心地よい酩酊を享受することでもあり、当人の目線ではリスクよりもリターンのほうが多いように見えてしまうものだ。あまり褒められたことではないし、動機として人に言えるものでもない。気持ちはわかるけれども。

動機について云々したが、これは積み上げ型の人には当てはまらない。やればやるだけ何かが積まれていく、そのことを実感できる人はこのような無駄を省くことができる。やるべきことが明確にある人間は強い。これは結果のよしあしを超越できる態度だといえる。ゲームでもそうだがレベル上げをしている最中というのは何も考えなくてもいい。考えなくてもいいというのはやはり理想的な状況のようだ。
しかし、人間何かがうまく行っていない時にこそドラマがあるというのも一面の事実だ。他人からすればそれだけが面白味なのだ。「他人の不幸は蜜の味」というようなことが言われるが、そこまで露悪的にならないまでも「他人の幸福には味がない」というのは思う。嫌なヤツだと思われたくないので付け足しておくと、僕は蜜の味やドロリとした質感は好きではない。
うまくいかない人間を見るのが面白いとはいっても、それには大きく分けて二種類ある。よくある型とめずらしい型。よくある方のは、本当に掃いて捨てるほどあって、達成に「及ばない」という型である。何かが足りなくて成功に漕ぎ着けない状況で、時間が解決してくれるとかお金があればとか、そういうものは大体ここにある。悩む本人には飛び越えるべき溝が深く見え、自分には決定的な失点、致命的な欠点があると考えがちになるものだと思うが、残念なことに(本当に残念なことに)、他人からすればそんな大それたものではない。
この手の「及ばない」ドラマは自分にとっては物足りない。努力すれば夢は叶う、みたいなのってギャグなんだけどギャグのなかでもけっこうな古典だ。しかし、努力努力の末に物事がうまくいって、ラストだけうまくいかずに苦いエンディング、というひねったものがあって、そういうのが一番つまらない。ハイハイ大人向けねそうですか了解(中指)という感じになる。「ダンサー・イン・ザ・ダーク」とかマジで糞だと思う。それよりはストレートなサクセスストーリーを見たい。
もうちょっと高級なものになると、禍福はあざなえる縄のごとし、人間万事塞翁が馬みたいなメッセージを打ち出して、主人公の感情に波を作るタイプのドラマがある。こういうのもあらすじだけ見るとつまらないと思うけど、実際に映画を見ると泣かされたりする。波と波の合間のふとした瞬間とか、やっぱりグッとくる。これぐらい高級なものになると丁寧に作られているものも多いからそれだけ登場人物の気持ちにも入り込みやすい。自分の嗜好からすれば結構な矛盾があるけど、考えることと感じることがズレっからたのしいんだろうが。これ以上頭でっかちになってもしょうがない。結局、このカテゴリにも好きな映画は多い。

一方のめずらしい型のドラマはどういうのかというと、「果報は寝て待て」を地で行くような、達成が次から次へと主人公のもとへ舞い込む、他人にとっての羨望の対象ががすべて主人公のもとに集まる、問題があっても座っているうちにひとりでに解決する、というものだ。「及ばない」のではなく「及びすぎる」ことによる葛藤である。それは自分以上の才能が現れるというのでも、何らかの制限が掛けられて才能を発揮できなくなるというのでもない。どちらも障害を乗り越えて達成に至る過程を描くものでそれでは「及ばない」ドラマと変わらない。そうではなく、幸運が幸福につながらない、自分の希望とは無関係にただただ幸運だというところに生じる葛藤である。このドラマは古くはハムレットにも見られる、問題がないということの問題でもある。「生きるべきか死ぬべきか」という問いにはそれが隠されている。

「自分のしている事が、自分の目的(エンド)になっていないほど苦しい事はない」と兄さんは云います。
『行人』夏目漱石

この苦しさのことだ。自分のしていることが自分の目的になっていないとき、人は適当に目的を作ってそれを達成しようとする。しかし、そういうかりそめの目的がポンポン達成されてしまったならばそのとき自分はどうすればいいのか、という疑問にはどこか砂漠の景色に近いものがある。砂漠行ったことないけど。
「飢えたる人よ。私はおまえがうらやましい」
という衝撃的なことを言ったのは永井荷風という小説家であるが、この感覚はわかる気がする。目的がない苦しさ、それから逃れたさにやけになって口走ってしまっている感じがすごくいい。言ってることはメチャクチャ、どう考えても間違ってる、それなのにわかるんだからすごいと思う。
何にせよ、達成が向こうからやってくる感覚というのは見ていて面白いものだ。しかも、向こうから達成がやってくるのにもかかわらず、そのことが本人の満足に結びつかないというところが最高に可笑しい。
ラッキーがハッピーにつながらない、自分の望みとは無関係にただただ幸運だというところにある葛藤。こういう葛藤をベースにした物語に僕は惹かれる。

映画「インヒアレント・ヴァイス(以下IV)」はそういう物語の変奏曲である。ホアキン・フェニックス扮する主人公ドックは70年代LAの私立探偵。私立探偵というと大仰だが、ビーチに暮らし四六時中何らかの薬物でラリっている地元の相談役のようなものだ。ドック(先生)という呼称も周囲の尊敬からというのではなく、ドック自らが自分をドックと呼ばせていて、周囲がそれを面白がっているような感じがあって好ましい。
ある日、元カノがドックのもとに現われてある依頼をする。それを解決するのがドックの「プロフェッショナル」としての使命となり、映画にとっての展開となる。事件はとんでもない規模の陰謀(ゴールデン・ファング)につながっていき、LA市警やらFBIやらの介入がありつつ、どうにか解決まで漕ぎ着けることになる。解決するというのは探偵物にあらかじめ内在する帰結なのだが、その解決にはドックの気持ちは反映されない。彼の動機は存在しないものとして事件は展開し、なんだかんだあったのち解決していく。ドックはそこで大きな役割を演じることになるのだが、そしてそれは彼のプロフェッショナルとしての態度からくるものなのだが、彼は自らがもたらした解決に置いて行かれることになる。彼は自らが開拓した道筋、自らが露見させた真相に置いて行かれる。この「置いて行かれる」というのはIVにおいて繰り返し描かれる感覚だ。事件解決の副産物として救うことのできたある人物の幸福そうな様子を見るドックの目は彼のスタイルを象徴している。突き進んだ自分の体に一歩遅れて心がついていく、それをよしとするかのような支離滅裂なプロフェッショナルな態度。
トリップするときの移動感覚が画面から伝わってくるようだ。解決がむこうからやってくる、しかもものすごいスピードでやってくる。動機について考える暇もない。自らの達成に引きずり回されるギリギリ一歩手前で、適宜トリップしながら進んでいくさまはスリリングで、そんなドックの姿を見ているうちになんだかんだ夢中になってしまう。
また、IVの登場人物は比較的多く、彼らはそれぞれドックの思惑とは無関係に動きまわっている。キャストの豪華さでそのことが表現されていて、その点も見ていてワクワクする。色々な人物は矢継ぎ早に出てくる。他人がどういう動機で動いているのかドックにはほとんどわからない。自分がどういう動機で動いているのかさえわからなくなっていく。よくわからないままとりあえずで動き、しかもその動きは的確で早い。テンポが良すぎてついていけない、置いて行かれそうになる感覚を味わえるのがこの映画の醍醐味になっている。意味や意図について考えていては感覚を味わう暇さえなくポカンとなってしまうこと必至。
大切なのはトリップすること、またその心構え。



『インヒアレント・ヴァイス』予告編 - YouTube