クリスマスをひかえて

 

気がつけばクリスマスまで一ヶ月を切っている(これを書いている時点で11月27日)。

気がつけば期日が迫っているというのは万人に共通する時間感覚かどうかわからないのだが、自分に限っていえば、確実にそうだといえる。何事も、いつも、いつの間にか通過寸前になっている。

たとえば自分は無類の飲み会好きであり、いつも飲み会を楽しみにしながら暮らしているのだが、当の飲み会ときたら、毎度あっさりその日その時が来て、あっさり終電の時間になってしまうのである。その間、約3〜4時間。よく死ぬ前に走馬灯が流れる云々という表現があるが、楽しかった飲み会のことを思い出そうとしても走馬灯で見たレベルでしか覚えていない。

自分の結論として、飲み会は振り返って面白いものではなく、近い将来に見越して楽しみなものなのである。振り返って面白い飲み会もあるにはあるのだが、それは期待したより愉快な気持ちになれた場合というのが多い。期待感MAX、すなわち近い将来に見越してだいぶ楽しみな飲み会というのはどれだけ期待に応える出来のものであったとしても、走馬灯のようにならざるを得ない。ただそれはそれで飲み会のいいところだと思う。

つまり、計画的な飲み会の定期開催と並行して、突発的な飲み会を散発することがのぞましいのである。振り返って面白い飲み会も走馬灯のような飲み会も両方あったほうがいい。飲み会にバリエーションがあるということは豊かなことである。

 

しかし、自分は飲み会なんていう小イベントのことをぶつくさ言いたかったわけではない。クリスマスという大イベントを憂いたいのである。

現状、自分の近い将来たる2015年12月24日ないし25日には暗雲が立ち込めていると言わざるをえない。いかに自分が目先のことにしか関心を持てないとはいえ、ひと月後というのは目と鼻の先である。一寸先である。そうして一寸先は闇である。

ここで過去を振り返ってみたい。ひと月前。その頃自分は希望に満ち溢れていた。大言を壮語し、今年のクリスマスは全力で最高のものにすると嘯いていた。とくにしっかりしたプランがあったわけではない。ただふた月もあれば何かがどうにかなるだろうと楽観していたのである。結果、本当にあっけなく、なにごともなく、ひと月は通過していった。まるで走馬灯のように。二十数年生きてきて実感する。「光陰矢のごとし」はガチである。

人間は過去に学ばなければならない。過ちを未来に繰り返してはならない。

自分は今年のクリスマスを流れ去る走馬灯から守らなければならない。思い出フォルダにきちんと保存しなければならない。そのために、近い将来に見越して楽しみだとはとても言えない現状があることを認め、それを覆すために全力を尽くさなければならない。ただ、負け惜しみではなくそう思うのだが、振り返って面白いと思えるためにはむしろ絶好の条件が整っているといえるのではないか。自分は逆境に燃えるタイプなのだから。

 

今年のクリスマスが楽しみだ。

 

 

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