慇懃無礼マン

 

自分は失礼を働くことができない。

誰かと同じ空間にいると、その間中、相手に嫌な気持ちを起こさせたらどうしようという不安に抑えつけられている。知っている人だったらどの程度が失礼になり、どの程度までがお巫山戯で済ませられるのかがわかるからだいぶ動きやすくなるのだが、知らない人といると、どの程度で失礼にあたるのか把握できないので心配が増える。自分の中の人見知りはこの部分にある。基本的に人間は好きなんだけど、知らない人はこわい。

こわいといっても、すべての知らない人がこわいわけではない。失礼な人間だとか考え方が根本からちがう人はこわくない。失礼な人間はむしろ得意なぐらいで、何にも気を使う必要が無いから気が楽である。殴られれば殴り返せばいいので単純である。考え方が根本からちがう人はまあこわいはこわいんだけど、たいてい好奇心が勝つ。

いい人がこわい。物腰が丁寧な人がおそろしい。こちらに気を遣ってくれるのはいい人だから蔑ろにするわけには絶対にいかない。でも自分はとにかく巫山戯ていたいわけだからそういう調和を崩さないと落ち着かない。笑ってもらうのは自分が楽な姿勢を得るための手段である。笑わせたいとか笑顔でいてほしいというのはもちろんだが、それはあくまで第二義的な動機である。

いい人はいい人なのだから尊敬すべきだと思うし、蔑ろにすべきではない。

しかし自分はよく退屈する。いい人と一緒にいても気疲れするだけで面白くないので意味がない。そう考えていられれば簡単なんだけどそうもいかない。誰かが言った言葉に「会話をしていて相手のことを退屈な人間だと思ったとき、自分が退屈な人間なのだ」というのがあって、それを聞いた時、そのとおりだと思った。もし退屈な人間でないなら、誰が相手でも会話を楽しむことができるというのは真だと思う。

いい人は基本的につまらない。自分はいい人なのでそれがわかる。いい人を演じることを強いられている自分は絶望的につまらない。いい人にはハンディキャップがある。その中でも「言ったらいけないことが多い」というのは結構なハンディである。そういうハンディを背負った人には、思いついたことを思いついたまま言える人間というのは最強であるように見える。面白いことを言う人間はめちゃくちゃなことを言える人間の中にしかいない。もちろん、めちゃくちゃ=面白いではないが。

自分は臆病な性質を持っているので、めちゃくちゃなことができない。少なくとも自然にめちゃくちゃなことができるタイプの人間ではない。ナチュラルボーン破天荒ではなくワナビー破天荒である。

いい人と同じ空間にいると考えなければいけないことが多くなる。まず、面白くしなければいけないという強迫観念がある。会話が退屈なものになってしまえば、先に言った理論から、つまらないのは自分自身だということになる。それはとても有り難くないことだから、是が非でも面白くしなければならない。そのため、お巫山戯の度合いを強める必要に迫られる。

一方で、あまりその人のことを知らない場合、どこまでが許されるのかというのも計測しなければならない。やりすぎた場合、自分はいい人にむかって失礼を働くことになる。それは最悪のシナリオである。いい人はいい人なのだから、失礼なことをされる筋合いはない。それにもかかわらず失礼を働いたとすれば、100−0で失礼を働いた自分がわるいということになる。

じゃあ失礼を働かないために自分自身いい人全開でその場をやり過ごせばいいではないかという話になるかというと、そうはならない。その場合、自分は退屈を感じるだろう。そして退屈な自分というイメージに自分は耐えられないだろう。そうしたとき、自分はどういう抜け道を見出すかというと、おそらく相手にむかって腹を立てるのだと思う。いい人の役をして抜け抜けと座ってやがるコイツは馬鹿じゃないのか、自意識というものがないのか愚図め、サービスを受けるのが当然のような顔をして四六時中ぼーっとしている不感症者か、この無意味人間が、というような罵倒を思い浮かべて溜飲を下げることになると思う。いい人にむかってそういうことを思うのはとても失礼な話である。

だからそんな不毛の大地から抜け出すべく、自分は手足をバタバタさせるのだけど、いい人はそれを見てやさしく笑う。いい人たる自分はその微笑みにむかって微笑み返す。やさしい世界に生きている。

 

 

人間ぎらい (新潮文庫)

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