きのう見た虹

 

 

僕は善意の場所で過ごしてきた。誰もが善意にあふれているとはいかないまでも、基本的におたがいの善意を元にして対人関係を築くような、悪意というのは例外的なふるまいとしてしか存在しないような場所で、これまで生きてきた。その例外的な悪意にしても、本で読むような「純粋な悪」からはほど遠く、単なる日々の疲れや体調不良によって心の余裕が失われた時にだけ垣間見られるような、ちょっとしたバグあるいはエラーのようなものであって、相手に致命的なダメージを与えてやろうという冷静な意図のもと行使される攻撃などではなかった。それでも、体調が万全の時には受け流せるようなちょっとした意地悪でも、それを受ける側も状況的に切羽詰まっていた場合にはそれなりの被害をうけることになる。そのため、日々の生活で重要な事はまず第一に、自分の体調を好ましい状態に保つこと。そして、相手の体調不良や万全でないコンディションに思いを寄せることだと思う。人間、疲れていては適切な判断を下すことがむずかしい、疲れきっていてはほとんどそれは不可能にひとしい、ということは頭に入れておかなければならない。しかし、現実に人は何かの目標に向かって努力するものであるし、そういうひとりひとりの努力があるからこそ物質的な余裕が生まれるという事情もあるので、一切疲れるなというのもこれまたむずかしい。寝る間も惜しんで努力することでしか達成できないような目標というのはやはりある。才能にしても時間にしても有限だからだ。もし恵まれているとはいえない状況におかれているのなら、最短距離である「直線」を選ぼうとするのを誰が非難できるだろうか。礼儀知らずな「時間」はゆっくり進んでもくれなければ道を譲ってもくれない。時間は黙って僕たちひとりひとりを追い立てる。人たちはせまい空間にひしめきあって、互いにぶつかりながら、あるいはぶつかってくる他人を避けながら、各々の目標にむかってひた走る。時には自分のほうではなく他人のほうで避けてくれるようにと願いながら、もうすこし大胆になれば「そこのけそこのけお馬が通る」とばかりに他人の存在を蔑ろにしたコースを進んでしまったりする。それこそ余裕の無さが、ある種の時間の暴力が、人をしてそのようなふるまいに及ばせるのである。そして他人のそのような余裕のないふるまいも、自分がもし急いでいなければ看過できるとしても、そういう時にかぎって自分のほうも急いでいるものなので、いきおい衝突は避けられない。そういう時、本当なら時間に対して悪態をつくべきだと自分は(今の余裕ある自分は)思う。が、それこそ時間の無駄なので、代わりに目についた他人にむかって悪態をつくことになる。時間はどうすることもできないが目の前の他人はまだどうにかなると思うからだ。そのような「ある程度の合理性」にもとづいて時間を無駄にすることになる。結局、他人をどうにかするというのはかなり限定的なかたちでしか成し得ない。他人に完璧をもとめるのは、時間を一秒でも止めようとするのと同じように「不可能」だ。できてせいぜい「嫌がらせ」ぐらいのことでしかない。ナンセンス。僕たちはより完成された合理性を追求するべきだ。もしくは一切の合理性を投げ捨ててしまうべきだ。半端な合理性にもとづいて自分の時間と他人の時間を両方とも無駄にするのはつまらない。自分としてもつまらないし、他人としてもつまらない。他人をうまく避けながら自分の道を進むことが、一番時間を費やすことが少ないということを知るべきだ。体力を費やすことも少ない。体力の温存というのは長期的なコンディションの維持に欠かせない概念だ。しかし、そのようなやり方は技術を要する。だから、そのような迂回路こそ選ばれるべきだと思うのだ。そして、僕たちは「テクニシャンさん」として時間の野蛮さを笑おう。時間のほうではそんなこと歯牙にもかけないとしても。ひょっとするとちょっとは感心してくれる他人がでてくるかもしれない。ナンセンス。きのう見た虹が今日見れないのは馬鹿げている、おかしい、ふざけんな馬鹿野郎、このすっとこどっこい、ボロぬの太郎! と、吐かそう。ナンセンス、ナンセンス。