「すべてがFになる」というテレビアニメを見ている

 
すべてがFになる」というアニメが面白い。
もとの原作が面白いのだろうと思うが、アニメになってより面白くなっているような気がする。演出が冴えている。
話の面白さで勝負するのではなく、演出の冴えで魅せよう、原作を越えようという野望を感じさせるアニメは総じて面白いが、この作品からもそういう気概が感じられる。
第一話のラストカットの演出には痺れた。ラジオの時報でねじ巻き式の腕時計の時間を合わせるシーンからのストップモーション。時間を感じさせる演出としてど直球なことに驚かされた。物語のテーマにつながっていく部分でもあるのだろうが、力強くもスマートであった。そういうのっていい。
生きること、自分が何者でどこからきてどこへいくのか、というテーマはそれ自体ではもはやどこにも到達できない。それを知りつつそのテーマの見せ方に工夫を試みることは素晴らしいことだとつい思ってしまう。そのテーマ、問いかけに対して無視できないものがあるということは事実なのだろう。無視できないからこそ、そのままの形で(自然といえば聞こえがよすぎる、無造作というのもまだやさしい)ありのまま問うことの怠惰(他人の怠惰)には虫酸が走る。
「他人に興味が持てない」という人間のことを僕は信用できない、というより、そう言ってしまってしまえる感性のことを信用できない。僕がそう思うのはいいのだけど、誰かがそう言うのは看過できない。看過するけど。誰かがそう思うのも考えてみれば嫌にはちがいないとはいえ、看過のしやすさはダンチなので相対的にとても好ましい。他人のスタンスで一番好きなのは、人が好きという看板を背負って他人に興味を持てないことで内心悩んでいるタイプだったりして、自分もそこを目指している。目指しているということはそうではないのかと思うかもしれないが、それはちがう。僕は人が好きで他人に興味があると胸を張って言うことができるし、僕は自分のことを嘘つきだとは毛ほども思わない。
ふたたび「すべてがFになる」の演出のことだが、僕は光の点滅にカタルシスをおぼえる。トンネルのオレンジのライトが入れ替わり立ち代り点滅していく様子など昔からすごくいいと思って延々その景色を見てきた。そんな僕にとって第二話の点滅する演出は素晴らしく好みに合った。単純なことをできるのはすごい。それだけ技倆が要るし、そういう技倆が鬱陶しくならないための色々な条件をクリアしているのだろう。すごい。僕にはその条件が見えないから余計にそう思った。