「おそ松さん」というテレビアニメをシェーして見ている



「おそ松さん」というアニメも面白い。もとの原作はアニメの「おそ松くん」ということになるだろうか。
おそ松くんを始めとする松野家の六つ子が成長し大人になり、「身体は大人、頭脳は子供」とでも言うべき有様で変わらない日常を過ごすというのが物語の世界観である。チビ太も大人になっているし、イヤミも年を重ねている。変わらないようでいて変わっているというのがこのアニメのテーマである。もしくは変わっているようで変わらないというのが。

先日、僕が経過してきた10年を振り返る機会があった。僕としては変わろう変わろうと思い続けてきた10年だったように思う。変化がなければ退屈だろうというのはとくに考えるまでもなく勝手に想像できたし、面白いことを探すために、場所を移動したり、いつもと違うことをやってみた。飽きたらやめようと思う前にやめていた。新しいことに夢中になると古いことは忘れる機能が僕にはある。
ダーウィンではないが、生き残るのはつよいものではない、変化するものである。というのを声に出して言ってみたりもした。耳に心地よいので。
飽き性であることにも飽きたから、何かを継続させようともしてきた。変化こそ、と気負う部分は多少あったかもしれない。それで肩が凝るというほどではないにせよ。
どこかに「変わること」というテーマがあれば、その裏拍は「変わらないこと」になる。次の10年は「変わらないこと」を大切にしていこうと思う。裏拍で変わっていけばいい。変わるというのは成長することではない。この10年のはじめの方は変わることを成長に結び付けないではいられなかったが、今はそうしないでも平気である。目的的に物事を捉えないでいるマインドセットを手に入れた。自由レベルが2〜3上がったんだと思う。その分、思い出せない何かが3〜4下がったような気がしないでもないが、思い出せないことは思い出せない時点で存在しないも同じなので大丈夫だ。でも、何かが上がるということは何かが下がるということを知っているという矜持はある。その矜持を込めて「成長」ではなく「変化」というのだ。こういうふうに思えるようになったというのは成長といっても過言ではないが、あえて変化ということで謙虚な自分を感じることもできる。
最近とみに「子供っぽさ」を指摘されることが多くなってきた。大人の皆さんはもちろんそんなストレートに仰るということはないが、それを意味する内容のことを円滑に、つまり遠回しに言われる。それまではあまり言われなかったので、多分、子供っぽくなってきているのだろう。「何が楽しいのか」ということをあごに手を当てつねに考えているから、そのような表面的に求道的な態度をきちんと評価してくれているのだろう。自分はそういうキャラクターでありたいと思っている一方、ガチでそういうふうなところ、あごに手を当てて考えるようなところがあるので、あんまり大人らしくはないなと思う。
これから大人らしく変わっていくのも、大人らしくないままで頑張るのも、両方有りだという気がしている。というより、大人らしさの裏拍は大人らしくなさなのだろうから、きちんとビートを刻めればそれらは両立されるはず。