コーエン兄弟監督作「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」

 

日曜よる9時からの「オモクリ監督」という番組がおもしろい。
お笑い芸人を始めとするタレントが監督になって短い映像作品を作って流すという番組だ。毎週設定されるテーマをのぞけばどんな映像にするかは監督の自由なので、それぞれの個性や実力がモロに反映されていて、そのガチ感がおもしろい。2〜4分程度のショートショートという形式だが作品の良し悪しはわりとはっきりわかる。この時間設定もちょうどよくて、人によっては本当にあっという間に終わってしまうし、逆に飛ばしたくなる人の作品でもギリギリ最後まで見れる。ただ、この人の作品は飛ばしたくなるだろうなというのが見てみると意外に面白かったりして、その人を見る目が変わったりすることもある。アンガールズ田中の作品がおもしろいと思った。前回の放送では番組の審査委員長を務めるビートたけしが監督をしていた。さすがに堂々たるものだった。誰が見てもその週の最優秀作品だったと思う。審査委員長の作品がおもしろくなかったら毎週の最優秀作品賞に説得力がなくなるところだが、むしろ説得力を増す結果になったと思う。

 

映像作品における監督の力というのは日本のテレビ文化ではあまり重要視されない。テレビで重要視されるのは旬の俳優たちである。東出昌大松坂桃李も格好いいし分かるといえば分かるのだが、それ一辺倒ではバランスが悪いような気がする。スタッフで言うと演出家よりもむしろ脚本家がフィーチャーされる事が多い印象だ。橋田壽賀子宮藤官九郎など。この並べ方はクドカンに悪い気がするけど、思ってたより脚本家が浮かばなかったからしょうがない。

この演出家軽視の状況に一石を投じることができるのか、その意味でも「オモクリ監督」には注目している。

海外では監督は重要視されている。むしろ脚本家が軽視されているきらいがある。それはそれでバランスどうなのという気はするが、監督ないし映画が大衆文化の顔になる状況は単純に羨ましい。日本にももっともっと知られるべき映画監督はいる。「吉田大八」の名前をどれだけの人間が知っているか。自分の周囲を見回してもはなはだ心もとない。
しかし、実際のところどうなのだろう。NYで生活していれば「コーエン兄弟」は周知の名前ということになるか。まあ、なるだろう。なんといってもNYなのだし。と、実際にNYで生活するつもりはないのでとりあえず楽観しておくことができる。自分の心のなかのNYは超最先端のイケてる文化的スポットの集積地だ。

 

自分は映画が好きになってからだいたい600本ぐらいの映画を見た。数字にすると意外に多いような、意外に少ないような、という数字だけど、レンタルショップで数珠つなぎ的にDVDを借りて見ていると自然と好きな監督が何人かできる。「北野武」「吉田大八」「コーエン兄弟」もその一人だ。彼らの新作がかかると必ず映画館に足を運ぶ。
なかでもコーエン兄弟にたいしての傾倒ぶりは我ながら目をみはるもので、近作4本「バーン・アフター・リーディング」「シリアスマン」「トゥルー・グリット」「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」はそれぞれ2回以上、映画館に見に行った。自分は普段から映画館に同じ映画を見に行くスタイルを採っているわけではないので、これは例外的な出来事である。とくにおもしろいと思った映画だけ、2回見に行くことがある。コーエン兄弟の映画だから2回見ようと思ったわけではない。おもしろいからもう一度見たいと思って、機会があって実際に見に行くことができた映画がたまたまコーエン兄弟の映画だったというほうが実情に近い。同期間中、2回めを見た映画はほかに「風立ちぬ」「思い出のマーニー」ぐらいのものである。たしかに、自分はジブリファンである。
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」は、わが映画鑑賞史上に残る快挙を成し遂げた映画でもある。3回、映画館に観に行ったからだ。【どうやって始まって、どうやって展開して、何を言って言われて、どうなって終わるのか】すべて知っていて記憶にもあって、おもしろいということがあるのかと疑問に思うと思う。
あるのだ。「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」は世にも珍しい、映画館で2回見てもなお、また見に行きたくなる映画なのだ。2回映画館に行って同じ映画を見ると、特別な満足感が得られる。これはぜひ味わってほしいリッチな満足感なのだが、満足感というだけあって、きっちり満足させられる。自信を持って、自分はこの映画が好きだと言えるような気がする。そんなふうに一定の重さの「好き」を心のなかに蓄えることはリッチで気持ちのいいことだと思う。
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」を見た後にもそういう満足感はあった。しかし、一方で飢餓感のようなものを抱きもした。そういう飢餓感、もう一度見たいという気持ちは2回めを見終わると自然に解消されるものなのだが、この映画の場合、2回めを見た後にも飢餓感は去らなかった。
何か自分の心にピタッとはまる曲を初めて聴いた時、バカのようにその一曲をエンドレスリピートで聴いた覚えはないだろうか。あるいは、好きなドーナツの味に出会ってから延々とそのドーナツばかりを食べるような時期がなかっただろうか。それの映画バージョンといえばわかりやすいのかもしれない。自分にとって映画バージョンのエンドレスな欲求は幼少時代の「トトロ」にまで遡る。こんなふうな欲求は物心がついてからは初めての経験だったので随分面食らった。
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」は音楽映画でもあり、音楽的な映画でもある。題材としてフォークシンガーを主人公にしている点で音楽映画であり、売れないミュージシャンのうだつのあがらない日々を、その延々と続くような感覚とともに描いている点で音楽的な映画である。彼の世界観の範囲内で山もあれば谷もある。コーエン兄弟の映画に特有のことだが、それを俯瞰の位置から見ることになる。俯瞰で見ると明らかになることで、決して本人の意識には上らないが、彼には並走者がいる。お互い手前勝手な並走者であり、いい加減な関係でしかないが、彼の世界観の範囲内で責任を感じたりなんかもする。
この「それ以上でもそれ以下でもない感じ」を貫きながら、それでも悲しかったり可笑しかったりするのはどういうわけなのか、すごく不思議に思う。そういう不思議な感じを不思議なまま感じ取れるようにしてくれる映画は自分にとってものすごく貴重なものだ。答えのないこと、答えがないまま表現すること、そういうのも音楽的だと思うゆえんだ。
「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」は音楽映画であり音楽的な映画である。だから何回も見たくなる。いい音響設備が整ったライブ会場でその曲を聴きたくなる。映画好きにというよりむしろ、すべての音楽好きに見てほしい映画だ。音楽をジャンルで聴かないなら(フォークソングがNGじゃないなら)きっと響くものがあるはず。

 

もっと「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」のグッとくるところの話をしたいのだが、自分は当の映画を見ていない人相手にその魅力を語るのが下手くそなので、悲しいけどここまでにしておく。
お互いその映画を見た状況でおもしろかったところの話をするのは得意とはいえないまでも好きなので、いつか全員が「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」を見ているという前提でその魅力について書こうと思う。
映画「インサイド・ルーウィン・デイヴィス」ぜひ見てみてほしい。ねこも出るよ。

 

 


映画『インサイド・ルーウィン・デイヴィス 名もなき男の歌』予告編 - YouTube