なにかをわるいということ

 

何かを悪いと云うのはとても難しい 僕には簡単じゃないことだよ

 

毅然とした対応が必要となることがある。はっきりとノーと言うべき局面がある。

差別的な発言に対してはノーと言わなければならない。いろいろな要素が混ざり合うのが実際の場合なので原理的に対応することは難しいが、その難しさにもまして原理的に対応することが必要になってくる場合がある。ひじょうにストレスになるがそれは我慢しなければならない。

 

混ざり合った要素は分けて考えられなければならない。それが理性的ということである。たとえば、自分の好きな俳優が差別的な発言をしたとしても、嫌いなお笑い芸人が差別的な発言をしたとしても、同じように許さないとする立場をとらなければならない。「それはそれ、これはこれ」である。

しかし、非理性的な捉え方も存在することを認めなければならない。場合によっては許容する必要もある。というより、完全に分離して考えられると思うのは過ちである。よしんばあなた自身が自分をつよく律することで完全に理性的な立場に立つことができたとしても、そうできない人が大勢いるということを忘れてはならない。

何かを純粋に批難するというのは不可能だと考えなければならない。それが知性的ということである。ノーという言葉に感情が混ざっていないか、つねに点検しておく必要がある。

 

それでも感情を出してノーと言うことをおそれてはいけない。考え込む前にノーを言うべき局面はある。とてもストレスになる局面だが。

まずはノーを言う。言い過ぎたと思ったら、あとでフォローなり修正を加えればいい。

それから、ノーを言う「必要」のある局面は、見も知らぬ他人よりも自分の知り合いが相手になる場合が多い。はっきり言ってめちゃくちゃ気を使うし、とてもストレスになる。そんなの全然ストレスじゃないよと思うようなら、たぶんいろいろ足りてない。

あと、見も知らぬ他人相手にノーを言うのは無意味な場合しかない。そういうのはスポーツでもして発散させよう。卓球おすすめ。

ノーをいう必要のあるときには頑張ろう。自分のなかの理性も知性も根性も総動員して気張ろう。あとはユーモア忘れずに。

 


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林檎ちゃんめちゃかわ。