分別ざかり

分別ざかり

 
サルトルの「自由への道」を途中まで読んだ。
第一部は「分別ざかり」といって、主人公のマチウがある選択を迫られる3日間の話だ。舞台は1938年6月のパリである。高校の哲学教師のマチウは自由を信条として生きる34歳、彼に迫る選択はパートナーの女性マルセルの妊娠に端を発する。ことを処理するために必要な金額は5000フラン、彼はなにはともあれ金策に走る。しかし金策はうまくいかない。それどころか、マチウにとっては思いがけない形で、マルセルが子供を産みたいと思っていることを知る。同時期、マチウがひそかに思いを寄せる年少の女友達イヴィックは進学試験の結果発表をひかえて神経質になっている。将来にたいして絶望的になっているイヴィックをなだめようとするマチウだったが、試験の結果は不合格。イヴィックは父母の元へ帰るためパリを離れることになる。マチウはふたたびパリへ戻ってくるように諭すが、イヴィックからはっきりとした返事を引き出すことができない。そんななか、マチウはついにマルセルの意志に応えようとして結婚を決意するが、彼女に「愛している」ということができない。
 
こうして書くと、マチウはいかにもひどい男なのだが、小説に書かれている彼は自分にも他人にも誠実な人間だ。それがどうしてこんなろくでもないことをして他人を傷つけ自分を駄目にするのか、というのがこの小説の眼目である。自由を標榜する人間というのはたいてい下司野郎なんだろうが、マチウも例外ではないのだろうか。
マチウは無意味な苦しみを味わっている。諦念の心地よさから我と我が身を引き離し、慣習にたいして狂信的な姿勢をとることを自らに禁じ、禁欲的な態度をとりたいという欲求をきびしく斥けている。そんな明晰さによって彼は他人に敬愛され、また軽蔑される。その同じ明晰さで他人を愛し、また傷つける。彼は自由になりたい男ではなく、自由な男である。そんな彼と鏡像関係にあるのがダニエルという登場人物だ。彼は自由になりたい男であり、そのために自分の飼っている3匹の猫を殺そうとする下司野郎だ。しかし彼の限界はマチウのそれよりも小さい。ダニエルはそのことによって下司野郎なのだが、それは同時に、猫にとっては善でもある。彼は彼の不徹底により、結局は猫を殺せないからだ。ダニエルは誰彼かまわず憎み、蔑んでいるが、結局は誰も傷つけられない。彼が誰もが見惚れるような美男として描かれているのは象徴的である。その心根は下司の極みともいえるものだが、結果として他人をたすけることになる。彼の他人への苛立ちは他人への善行として表れる。ダニエルも無意味な苦しみを味わっている。
自由という場においては、選択が結果にむすびつかない。裏目に出るのではなく、ただむすびつかないのである。結果は、ただ結果としてある。つねにすでに。
 

愛することを知らないあなた

激しく求めても無駄

 

愛することを知らないあなた

いつになっても知ることはない

 

 『人の気も知らないで』

 

 

 

自由への道〈1〉 (岩波文庫)

自由への道〈1〉 (岩波文庫)

 

 

 

自由への道〈2〉 (岩波文庫)

自由への道〈2〉 (岩波文庫)