最近見た4本の映画の感想

 

映画の日(毎月1日)周辺に映画館で映画を4本見た。どれも面白かったので感想を書く。ネタバレはしないつもりだけど、ひょっとしたら勢い余ってしてしまっているかも。

 

・オデッセイ

・キャロル

・ディーパンの闘い

・サウルの息子 

 

 

・オデッセイ

 

f:id:ryryoo22:20160306192111j:plain

 

マット・デイモン、火星に取り残されてさあ大変。

淡々と事態に対処することで生き残ろうとするサバイバル映画。たった一人でろくに酸素もない火星に取り残されて、もっと暗い雰囲気になってもよさそうなものなのに、マット・デイモンは底抜けに明るい。無理して明るく振る舞う必要はない。他に誰もいないのだから。それでも、生き残るのに必要な作業をしながら音楽をかけたり、火星の悪環境に向かって悪態をついたり、ナチュラルボーン陽気なヤツ感が出ている。

主人公の人柄もあって、この映画は暗くはないんだけど、ところどころでさり気なく「たった一人で、生存に絶望的なことをわかって火星にいるのはどういう気持がするものなんだろう」みたいなセリフを地球上のスタッフに言わせていたりする。状況が明るくないということを皆わかっているし、マット・デイモン自身誰よりもそれを理解している。

いかに悲観的な状況であっても目を逸らしたりせず、出来る限りのことをしようとするプロフェッショナルとしての姿勢がある。しかも一人じゃなくて皆で。NASAはそういうチームなんだと描かれていて、正直かっこいい。

プロジェクトリーダーのナンバー1とナンバー2の意見が対立して、ナンバー2が自分の意見を通すシーンがある。結果にかかわらずその時点で「事が終わればクビにする」と言明しつつ、事が終わるまでは彼をプロジェクトから外さないナンバー1も、クビを受け入れつつ働くナンバー2も、両方かっこいい。

やり方が違えば目的までも違うように見せて、反対意見をわかりやすい「悪玉」として扱うことが多いフィクションの世界で、どちらの意見が正しいということなく、あくまで同じ目標に向かってアプローチが異なるだけだとする見せ方は難しいものだと思う。見せるにあたって簡単なのはこっちが善、あっちが悪という二元論だと思うけど、それをしないところに高級感がただよう。普通の場合はもっと安易な味付けをする。

たとえば、学園ドラマなどで、教頭は生徒のことをまったく考えない人物として描かれたりする。熱血教師が敢然とそれに立ち向かう、という構図を作るために。そういうのは効果的なんだろうけど安っぽい演出でもある。

片方が悪いからもう片方が良いというのは子供だましにすぎない。オデッセイにおけるマット・デイモンの感じがとても良く見えるのは、都合のいい悪者がいてマット・デイモンがそれに立ち向かっているからではない。地球側と文章でコミュニケーションを取れるようになったときにマット・デイモンがまず言ったのは、自分が火星に置き去りにされることになった事の顛末と、自分を置き去りにする決断をした船長に非はない、ということだった。

極端にコミュニケーションが限定される状況下ではコミュニケーションの重要性は否が応にも増すことになる。逆説的な表現で、「誰かと一緒にいるとかえって孤独を感じる」ということが言われたりするが、逆もまた然りで、「究極的に一人きりだと他人の存在を感じやすくなる」ということもあるのではないか。マット・デイモンが映画のクライマックスで誰かとコミュニケートするとき何を言うのかというのは映画全体を通じてだんだんつよい関心の的になっていく。考える時間はたっぷりあった。だから予めこう言おうと何パターンかは考えていたはずだ。

ラストシーンに向かって、こういうのがかっこいいだろ?というシーンが目白押しになる。スペースパイレーツの響きはかっこよくて可笑しい。

ラストシーンはこの映画のテーマがコミュニケーションだということを象徴しているような名シーンだと思った。

 

 

・キャロル

 

f:id:ryryoo22:20160306192312j:plain

 

恋の不可逆性と、美しさへ向かう可愛らしさ。

天真爛漫な女の子に恋をする美女の話。キャロル(ケイト・ブランシェット)は娘のクリスマスプレゼントを選ぶために訪れたデパートのおもちゃ売り場で、店員として働くテレーズ(ルーニー・マーラー)と出会う。そこから何のかんのとあってキャロルとテレーズは恋に落ちる。テレーズにはボーイフレンドがいたものの、望まれるままの関係で、自分の意志で恋をしたことがなかった。「自分が望むものが何なのかわからないのにノーということはできない」と言うテレーズ。キャロルがテレーズに惹かれたのはまさにそういうところだったのかもしれない。キャロルは「天からおりてきた女の子」とテレーズを評する。

実際にこの映画を見て「テレーズはべつに可愛らしくない」という人がいたらせひ会ってみたい。クリスマスシーズンのおもちゃ売り場でお仕着せのように着せられるサンタ帽の可愛らしいことといったらない。自分からかぶるのではなくかぶらさせられているところがポイント。また、その後のシーンで、ドイツ国旗の色合いの妙ちきりんなデザインの帽子をかぶっている、その間の抜け具合の愛らしいこと! 

しかし、恋に落ちたテレーズは、途端に美しくなっていってしまう。美しくなっていってしまう、というのはあんまり聞かない表現だと思うものの、そういうよりほか仕方ない。可愛らしさは影を潜め、自分の意志をしっかりと持ち、相手を拒絶することをおぼえたテレーズの冷たい表情はあくまで美しい。間の抜けた表情を可愛らしく見ていた同じ目で、その冷たい美しさを見ると、寒々しさにブルブル震える。そんなふうに美しくなった彼女と向かい合うキャロルに感情移入して見るとテレーズの視線は物凄い。実際にナイフで切られるような気さえする。

この映画の素晴らしさは、そうやって切られる側に回ったキャロルが、また例えようもなく美しいところにある。美しいものは傷つけられることでより美しくなる。疑うものはキャロルを見よ、だ。

タクシーに乗ったキャロルが街を歩くテレーズを見つけ、その歩く姿に見惚れるシーンが一番好きだ。人は美しいものを前にすると見惚れるものだけど、キャロルの場合、見惚れる姿もまた見惚れるほど美しい。

 

 

・ディーパンの闘い

 

f:id:ryryoo22:20160306192330j:plain

 

フランスで移民生活をはじめる擬似家族の苦闘。

スリランカの内戦ですべてを失った男は偽造パスポートでフランスに亡命する。そのために擬似家族を作らなければならない。赤の他人同士で夫、妻、娘というチームを作り、男はフランス・パリ郊外でディーパンという名で移民生活を始める。

はじめディーパンはタミル語しか話せないが、フランス語をおぼえることは生活をするために欠かせない。スラム化している団地の管理人として働き始めたディーパンはフランス語での会話ができるようになるなど、次第に環境に適応していく。また、擬似家族として集まった彼らだったが、心を通じ合わせるようになっていく。

この映画の緊張感は本物で、生活の苦しさや、知らない文化の恐ろしさが画面越しにしっかり伝わってくる。ラストシーンでディーパンは武器を手に戦う決心をすることになるが、彼の本当の闘いは環境への適応と、擬似家族を本当の家族にしようという試みにある。

彼は生き残ろうとしながら生き残る理由を探している。どっちがうまく行かなくてもダメになってしまう、そして、簡単なことですぐ決定的にダメになってしまうという綱渡り感覚が全編通じて続く。管理している団地の住人とすれ違うだけのシーンでも緊張感が半端じゃない。それに比べて最後の戦闘シーンは呆気なく、絶望的なほど現実感がない。

 

 

・サウルの息子 

 

f:id:ryryoo22:20160306192348j:plain

 

ガス室で見つけた息子の亡骸をきちんとした形で葬ろうとする男の執念。

ホロコースト強制収容所が舞台の映画を見るのはいつも気が重い。なぜ自分がそんな映画を見るのかよくわからないまま、それでも見ようとしないわけにはいかない。

絶望的な状況にあって、絶望的な作業に従事させられるゾンダーコマンド。その一人であるサウルの執念。ガス室の犠牲となった息子をユダヤ教の正式な手続きで埋葬したいという一心で動いている。

状況を考えれば当然だろうが、誰もがイライラし、怯えている。映画内で笑うシーンは二回しかない。一つはドイツ人将校の笑い、もう一つはサウルの笑い。どちらも強い印象を残した。

 

 

 

今回挙げた4本それぞれにそれぞれの特徴的な良さがある。

男の子には「オデッセイ」、女の子には「キャロル」、映画好きでその両方とも見たという人には「ディーパンの闘い」、ぜんぶの大人には「サウルの息子」をおすすめしたい。

 

 

ウォーキング・ミュージックとランバンを退任したエルバス

 
読めない本には決まりがある。
一文の中にある単語の2つまでが分からなかったら、その文章は基本的に意味を結ばない。
一ページのなかに意味を結ばない文章が2つあったら読み通す気が失せる。3つで完全になくなる。
僕が最近読んだ読めなかった本に『服はなぜ音楽を必要とするのか』(菊地成孔)がある。
 
天才アレキサンダー・マックィーンはフェミニン勢力が一斉に後退させた黒を徹底的に使い、チャンピオンベルト風のグリーク・アイコンと胸元のカット(フォンタナの「空間概念」を想起させる、痛いまでに鋭い切り口です)に執着し、発狂したリアルクローズといった趣き。
 
この文章は、僕にとっては、アレクサンダー・マックィーンという天才が発狂した趣き、ということしかわからない。ひとつのことに異常なほど執着するのが「天才」のイメージなので、【徹底的に・執着】というワードが天才の肖像にそれらしい陰影をつけているように思われる。
文章はこうつづく、
 
二〇年代にドイツで隆盛を誇った「頽廃芸術」の女神を思わせる、ある種の変態性/様式性は完成した感さえあります。奇矯さで名を成した彼が、一転してリアルクローズ「風」なレディスを作ることで見せた光景は、内在していた女性への攻撃的マゾヒズムが開花した印象。音楽はヒステリックかつセクシュアルな絶叫とギターに満ちたロック使い。完璧です。

 

まず、自分は音楽についてまったく詳しくない、そして、ファッションについてはもっと詳しくない、だから、アレクサンダー・マックィーンが音楽の天才なのか、ファッションデザインの天才なのかということさえ、この文章だけではわからない。
それでもこの本はなんとなくで読める。『服はなぜ音楽を必要とするのか』というタイトルに不明瞭な点など欠片もない。もっとも、副題の『「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召喚された音楽たちについての考察』になるとちょっとわからないところが出てくる。それでも「ウォーキングミュージック」なるもののイメージを浮かべることは難しくない。
なんとなくイメージを浮かべ続けるだけで一冊まるまる楽しんでしまった。僕がイメージで思い浮かべたウォーキングミュージックは、通学通勤のさなかにアイフォーンのイヤフォーンを耳に突っ込みながら歩く日常の風景である。もしくはレディガガを大音量で聞きながら(もちろんイヤフォンで)御堂筋を闊歩して楽しんだ記憶である。しかし、そのイメージは本文で訂正された。実際の「ウォーキング・ミュージック」はパリコレに代表されるファッションショーでかけられる音楽のことだ。この本の筆者(音楽家:菊地成孔)はファッションショーの音楽がモデルの高度に洗練されたウォーキングによって無視されるさまを、MなのかSなのかわからないが、彼一流の変態性をもって嗜好している。モデルによって音楽が無視される様子がなんらかのズレを生み出し、ファッションショーという映像作品に独特のリズム感・うねりを創りだすことになっている、ファッションショーという演し物、その全体を偏愛している。
この本を読んで僕にわかるのは、文章のもっているリズム感と偏愛の異形だけだ。音楽界もファッション界も、片足の爪の先でソフトタッチしたこともなければ、その映像と対峙したことさえない。ツイッターでフォローしている「Fashion Press」が定期的にポストするファッション界のニュースで「エルバス退任」の報を受けたことを覚えているぐらいだ。エルバス誰やねん、太ったかわいいおじさん、という記憶が奇跡的に隅っこの方にかすかに残っていた。
 

f:id:ryryoo22:20160224214626j:plain

ランバンのアルベール・エルバス(すこし前にランバンを退任した)
 
文章のドライブは意味が通じないでも楽しんだりできるものらしい。最近、『おくのほそみち』という昔の人が書いた旅行記を読んでいるが、あれも意味のほうをなんとなくで済ましておいて、音をメインに読んでみるとあれでなかなか結構おもしろい。『服はなぜ音楽を必要とするのか』にもそういうのと似たような感じがある。
今ではグーグルという電子辞書的なものを誰もが持っているのだから、調べたいところ、どうしても気になる箇所だけサッと調べてみてもいい。しかし、基本的な情報はさりげなく文章に入れ込んでくれているので、服と音楽の関係を追っていくだけで、なんとなくのイメージは掴める。
 
意味が分からない二つの要素があって、それでも僕にわかるのは、それらの関係がない(もしくは関係がうすい)と思われていたものに渡りをつける行為である。文章の接続や非接続、転調による意味の流れ。水の元素がどうだとか知らなくても、高いところから低いところに流れていたらそれは川で、川に流れているのは水で、というように。なんとなくでもわかるところまではわかるもんなのだ。
なんのこっちゃわからない文章には、このような文章の快楽(エクリチュールというらしい)を生のまま味わいやすいというメリットがある。書かれてある事の内容を理解するときにも快楽的な何かは発生すると思う。それは好奇心の満足だったり、知識の蓄積だったり、文化的見栄の建設だったり、何にせよ文章を読むことの副作用として得られる。本の虫以外は副作用のほうを主な目的にするものだけど。
快楽とか言い始めるとゴールはもう近い。音楽でもファッションでも、ノリは近くて、それは快楽原理の周辺をぶらついているからだ。いわば、われわれが興じる趣味はみな快楽という星の惑星系なのだ。
 
現代的の人間が快楽に近づこうと思えば、すこし入り組んだ道を歩かねばならない。急がば回れというわけで、快楽はいつも角をいくつか曲がった先にある。角の曲がり方にも作法がある。作法には善し悪しがある。というわけで、どの道が、そしてどんな歩き方が、ファッションショーの世界でいうところのエレガンスを表現するのか、または逆のものを表現してしまうことになるのかということを季節とコレクションの巡りで判断し批評する本書は、快楽に近づこうとするわれわれのよき副読本になることだろう。
『服はなぜ音楽を必要とするのか』、本棚の四段目やや端のほうに仕舞っておけば、回り回って具体的な役に立つ日も来るのかもしれない、なんて。
 
 
 ランバンを退任したアルベール・エルバス
 
 

とりあえずの目的について

 

僕はどちらかといえば手段と目的を分けて考えるタイプだ。

目的と手段にははっきりした主従関係がみられる。目的がえらくて手段がそれに従う。目的のために手段があるのであって、その逆ではない。倒錯とかないかぎりは。

 

たとえば、牧場に行くのは羊を見に行くための手段だといえる。しかし羊を見に行くのは何かの手段ではない。羊を見ることはそれ自体が目的だ。

目的というのは、これは何かの手段であるという考えが思い浮かばないところにあるのだと思う。羊を見て、羊の生態に詳しくなろうというつもりがあるのなら、羊の生態に詳しくなるということが目的だといえる。自分の行為に動機を探ってみて、とくに何も思いつかないのであれば、その行為自体を目的と考えるのは妥当であるだろう。

しかし、物事というのはおおよそ突き詰めて考えられるもので、目的と思っている行為であってもそれが何かの手段なのではないかと考えることもできる。自分のとった行為の説明が求められるような場合、少なくともそれを仮構することはできるし、実際にそうしたとき、目的だと思っていた行為の目的性はうすれ、べつの目的が生まれることになるのは想像に難くない。

そのようなとき、羊を見るのが好きだからという説明に留めるということが大事になってくる。好きに理由はいらないというのは共通理解として成立しているから、人様にむかって「なぜそれが好きなのか」という追撃は、よっぽどの与太郎でない限りは浴びせてこないだろう。嫌いなものには理由もあるだろうが、好きなものは好きなのである。

そうは言っても、僕は僕自身のことになると大変恥ずかしいことに与太郎になりやすい性質をもっているので、自分はなぜこういうことが好きなんだろうと自問してはジリジリしたりすることも多い。毎回答えなんか出ないからだ。

だからもういっそ思い切ってしまって、自分に向かっても単に好きで終わらせることも多い。だけどそれはそれで、人に理由を訊かれたとき用の仮答案も用意していないので、うまく自分が好きなものの良さを説明できない。好きなもののよさを本当に説明できたためしがない。さらに悪い事に、好きなものは後から後から湧いて出てくるから、あれも好きこれも好きとなって、それらを無頓着に横並びに並べて平気な顔して済ましている。いつか、あれも好きこれも好きといって形成された壁一面の好物から何らかの共通点を見つけられればいいなと漠然と思っているのだけど。

目的をひとつに絞って、それ以外のすべてを手段と考えることはできないし、したいとも思わない。僕が飲みに行くのは飲みたいからだ。絵を見るのは絵を見たいからだ。本を読むのも映画を見るのも友達に会うのも、それがやりたいことだからだ。

純粋に目的意識を計測すれば、何らかの数値が出て、それをもとに何らかの計算をして、その計算結果を勘案しながら、行為を選択するということも、やればやれないこともないのかもしれない。でもその計算をすると、目的の目的性が遠のいていって、すべての行為が何かの手段のようにしか感じられなくなるのではないかという危惧がある。

好きなものが多い僕でも、目的だと感じられる物事の数は指折り数えるほどしかない。自分のやることなすことすべてが目的と感じられず、手段としか思えないというような事態は避けたい。

そういうことを考えると、いわゆる芸術というやつは、目的性がつよいというか目的そのものというか目的の象徴みたいなところがあるので、やっぱりグレートだと思う。音楽を聴くのに理由はいらないし、絵を見るのに動機を探る必要はない。

 

本当にそれがやりたいことなのか? という疑問は恐るべきもので、たまにそういうことを考えた途端、物事全体がつまらないものに思えてしょうがなくなることがある。これは周期的な発作のようなもので、放っておいたら勝手にどこかにいってしまうくだらない考えにすぎないのだけど、そのせいで「本当にそれがやりたいことなのか?」という問いは僕のなかでは完全に悪者になってしまった。やっぱり「本当に」がとくに曲者だと思う。どうも「本当に」と聞くと断言する気持ちがなくなるようだ。

だから僕にとっては、「とりあえずはそれがやりたい」というのがもっとも誠実な回答ということになるのだけど、とりあえずというのはあまり外聞が良くないものなので、省略することにしている。でもやっぱり、「とりあえず」というのは大事な姿勢だと思う。いいとかわるいとかそういうことは言えないけれど、少なくとも僕にとってはかなり大事な考え方のひとつだ。正直なところ、最近では「本当に」よりも「とりあえず」のほうがグレートなんじゃないかと思うようになってきている。

本当にがあってこそのとりあえずだということはとりあえず置いておいて。

 

 

行人

行人

 

 

自分のしている事が、自分の目的エンドになっていないほど苦しい事はない