気になる時間

 
「還らぬ時と郷愁」という本を読んだ。

この本を読むためにはいくつか外せないポイントがあるが、まずは《逆行できないもの》という概念を理解しなければならない。逆行できないものというのは、さかのぼったり来た道を引き返したりできないもののことを指す。言葉通りであるため、まどろっこしい上に、わかりきったことのように思えるかもしれないが、この本では逆行できないものとは何かということについて一章を割いて説明している。端的にいうとそれは《時間》のことである。
逆行できないものの逆行できなさについては、時間と空間の対比で説明がつく。今、過ぎ去った一秒は、二度とはやってこない一回限りの一秒である。対して、今いる《ここ》は、移動によって《ここ》ではなくなるものの、さらなる移動によって帰ってくることができる《ここ》である。べつの場所にいながら《ここ》にいることはできないが、《ここ》から去っても《ここ》に戻ることはできる。さきほど去った一秒はそのような性質を持っていない。べつの時間を指差して一秒という区切り方はできるが、その一秒はさきほど過ぎ去った一秒ではない。それは、もはやすでに過去として刻印された、固有の一秒である。ふたたび、またもやということばは絶対に使えない。過去が《あった》ということは、それを意識しようがしまいが、誰に知られていようが誰からも知られていまいが、揺るがすことができない。認識する主体の有無にかかわらず、《あった》ということは《あった》であり、《なかった》とすることはできない。このことは《取り消せないもの》として説明される。生成するというのは《取り消せないもの》を生成することであり、その土台となるのが《逆行できないもの》である。もし逆行できないものが逆行できるとするなら、取り消せないものは取り消すことができる。
しかし、それはできない。
たとえば、歴史の資料となる発見をだれかが破棄したとしても、それはなかったことにはならない。なかったかのように思わせることはできるにせよ、あくまで《かのように》であり、なかったことにはけっしてならない。悪事の証拠をもみ消せば、悪事の露見はされないかもしれない。だがそれは《あった》を《なかった》とすることとは異なる。
つまり、《逆行できないもの》という考え方は、われわれが認識しないものの存在を認めることでもある。認めるというよりは、認識の有無にかかわらず、そういった諸々の事情を超えて《逆行できないもの》はある。《逆行できないもの》という概念は超越論的である。
そういう諸々の事情を超えていく考え方は諸々の事情を超えていくがゆえに無意味なものだと思われるかもしれない。たしかに《逆行できないもの》は、諸々の事情を解決するどころか、そういった事情を横目にひたすら突き進む。いや、横目に見るということさえないだろう。ただただ突き進む。僕たちの側は《逆行できないもの》にたえず影響を受けながら、《逆行できないもの》は僕たちの影響を受けない。事情を考慮したりもしない。
人間がいなくなり、考える・感じるということがされなくなった世界に僕は興味をもつことができない。宇宙の歴史を考えると人間の歴史はほんの一瞬、という考え方は無意味なものだと思う。人間中心主義的な偏った思想かもしれないが、それに不満はないし、それでたくさんだと思う。だから、超越論的な考え方に対しての冷淡な反応を理解できるし、宇宙の歴史という非人間的な考え方よりむしろそのほうにシンパシーをおぼえる。
しかし、僕は《逆行できないもの》に対しては無関心ではいられない。《逆行できないもの》は僕には関係ないとはいえない。コントロールできるものではないとしても、気になってしまうものは気になってしまうのだ。気になってしまうというのは言い方として穏当なもので、「どうして逆行できないのか」という子供のような駄々をこねることにしかならないにせよ、《逆行できないもの》に対しては怒りのような気持ちを抑えることがむずかしい。言ってしまえば、《逆行できないもの》について知ろうとすることは、僕のひそかな復讐だった。復讐などと劇的なことを僕はすぐに言いたがるが、《しっぺ返し・当てこすり・意趣返しのつもり》といったところだ。
この本の第二章は「逆行できないものへの抵抗」と題されている。これは僕の意に沿う。さらに、第三章では「逆行できないものとのなれあい」、第四章では「逆行できないものへの同意」と続く。この流れはとてもいい。僕の意に沿う。《逆行できないもの》を認知してやろうという気概が見える。

逆行できないものを逆転できず、ひとは一見生成の方向を取り直し、自分を引きずっている時を導き、ほかに仕様があるとでもいうように、抵抗できない必然性に自由意志で同意しているという幻想を抱く。欲するにせよ欲しないにせよ、引かれた男は、たしかに欲する男だ。それが自由人としての贅沢であり、自由人としての優雅さだ。 (第五章)
 
次のように問うべきではないだろうか。どうにもならないものに抵抗して進むふりをするのにどんな勇気が要るのだ。ふりをするのにいったいどんな勇気が要るというのだ、と。そのような勇気は、美辞麗句以外のなんだろう。実現できない企て、実現できず失敗すると事前に知っている企ては、真剣でもなければ、責任もない。できないことに挑戦するのはたしかに英雄行為だ。しかし、このできないことの不可能さを事前に知っているときには、挑戦はむしろ冗談だ。生成を気狂わしくもあと戻りさせようという絶望裡の企てにはおそらくなにか怠惰でことばだけのものがある。つまり、できないことは、するようにできていないので、やさしい。そして逆に、むずかしくて困難さをともない、思い切りと勇気とを必要とするのは、できることだ。というのは、力ができることの方向に働くとき、任務を中断するには言い訳が立たないからだ。実際にできることをあえてする、前進がわれわれに許す行動の自由を徹底的に使う、これこそいみじくも男らしい勇気だ。 (第五章)
 
 
《逆行できないもの》は時間のことであり、時間はこちらが時計で測ろうが測るまいが勝手に流れていく。勝手に流れるものに名前をつけるのは対象をコントロールしたいという欲求の微弱な現れではないだろうか。無意味なほど微弱で、《逆行できないもの》にとっては痛くも痒くもないだろうが、逆行できないものを《逆行できないもの》と言い表すことはほとんど無意味だが、ゼロ意味だとは思わない。観察し記述することは、それがどれだけ限定的なものでしかなくともゼロではない。ほとんどゼロではあってもゼロそのものではない。
 
過去の深みに、数知れないその状況とともにうずくまった無限小の出来事は、叙述することによってはじめて次々と現存となることができる。 (第三章)
 
 すべての出来事が一回限りの出来事であり、《逆行できないもの》は途方も無くはかないものをつぎつぎと生成する。僕たちが感じられるものも途方も無くはかない。ほとんどないようなものであるかもしれない。だからといって、《逆行できないもの》を直接知っている誰かに、はかない《僕たちの感じ》を《ない》と言われたくはない。とはいえ、おそらく、《逆行できないもの》を知っている誰かは、途方も無くはかないものを《ない》とも《なかった》とも言わないだろう。《あった》ということだろう。たぶん。
 
一回限りの出来事は、この点では、愛の約束と告白に似ている。ただ一回わたしの受けた愛の告白は、すくなくともほんのもう一度だけ繰り返されなかったならば、無限に疑わしく、曖昧だ。わたしに愛を告白した男は、あるいは誠意に欠けていたかもしれない。そして、あるいは話し過ぎたことをその後後悔さえしている……。けっして繰り返されたことがなく、永遠の沈黙が続いている愛の告白は、ほんとうに愛の告白だったのだろうか。愛の告白は去っていく。底なしの夜のうちに去ってしまった。すべての事後のことどもとともに、しかも永遠に失われた。そしてわたしは、信じられないことばの現実性について自問する。たしかに聞いたのだろうか。ほんとうに、わたしに言ったのだろうか。時の薄暗い流れが運び去ったあのひそかな接吻はわたしに向けられていたのだろうか。わたしに……。わたし自身の思い出なのだろうか。それとも夢見たのだろうか。 (第四章)

たしかに、諸々の事情を超えたところでの話ではあるので、人によっては無意味な上にも無意味なことであるだろうが、僕にとっては無意味な上の《ほとんど無意味》でしかない。僕はこの本を三週間ほど費やして読んだ。
 
愛が誰を愛しているか言うことができるように、希望は自分が希望するものを言うことができる。 (第三章)

空をとびたいと望むことあるいは可能でないことの記述について

 


Oscar Isaac - Fare thee well Orignal soundtrack (Inside Llewyn Davis)

 

If I had wings like Noah's dove
I'd fly the river to the one I love
Fare thee well, oh honey, fare thee well.

 

空をとぶことは「できないこと」のカテゴリに属する。僕たちはできないことに対して憧憬をおぼえる。僕たちが空をとぶことを夢見るのは、それが実際にはできないからで、過去が過去として価値を持つのは、それが二度と戻れないものとしてあるからだ。
ジャンケレヴィッチは「還らぬ時と郷愁」のなかで、時間に対する記述をこころみる。時間は一般に不可逆性のものと考えられており、一方向に流れるもので、僕たちはそれをコントロールすることができない。時計の針を逆に回してみたところで、時間が巻き戻るわけではない。そうであるから、時間を記述するといっても、時間のコントロールを試みる、その一環として時間を把握しようとするのではない。あらゆる「できないこと」を一手に集めたものとして時間を取り上げ、それについてできるかぎり正確な記述をしようとするのである。書かれたものにはそれを書いた人の意図が反映されるとすれば、このように不可能なものに対して記述をこころみるというのは、どういう意図があるのだろうか。空をとぶことを不可能であるとしながら、それを望むというのは、どのような気持ちのすることなのだろうか。僕はそういった意図に対する疑問を持ちながら、同時に、そうしようとする気持ちに納得できる。わざわざだれかに説得されないでも、はじめから納得している。僕だって空をとびたい。それで川を越えたいとか、大事な人に会いに行きたいとか、そういうことではない。川を越えるのだったら橋を渡ればいい、大事な人に会いに行くのであれば電車に乗ればいい、わざわざ空をとぶ必要なんてどこにもない。空をとぶことは可能ではないのにそれをのぞむのだから、許されていないことをあえてしたいという反抗的な気持ちが自分のなかにあるのを認めなければならない。可能ではないことが自分の目の前にはっきりとある、それを認めたくない気持ちが空をとびたいという幼稚な欲求に結びついている。
時間に対して記述することをもって向かうのは、幼稚な欲求の高度な現れである。言葉によってそれを正確に写し取ろうとするのは骨の折れることであると同時に、まったくの徒労である。人はいつか死ぬという言葉を口にする者はつねに空しい。みじめたらしくなく「自分もいつか死ぬ」と言うことのできる人間はいない。それができるのは死なない人間だけだ。自分の持てる限りの力を用いて最大限陽気に振る舞おうとする人も、いつか死ぬことからくる哀愁の感情からは逃れられない。それでも最大限陽気に振る舞おうとするのはなぜか。この動機こそ、時間に対する記述をこころみることの動機と通底している。人生を陽気にすごす必要などどこにもない。また、時間というどうにもできないものに対して記述によって向き合おうとする必要もどこにもない。必要がないのにもかかわらずそれを望むことが可能であること、それが自由ということの中身なのではないか。愛するのはなぜか。もちろん、それが必要だからということは言おうとすれば言える。おそらく、実際に必要なのだろう。なんのためにという問いはどこかでうやむやにしなければならない。どこまでもなんのためにを問うこともできるが、それをどこかで止めにすることは必要とするための条件である。大小様々な足掻きのなかで、自分にとって大きなものを必死になって求めていくこと、どうせ悪あがきなのであれば、もっとも大きなものに向かって足掻きたいと思うのはやはり人情なのではないだろうか。どうせ勝つ見込みがないのであれば、世界最強のチームと対戦して木っ端微塵に粉砕されたいと思うのは、負けず嫌いにとってむしろ自然な欲求ではないか。そしてそのなかでも、勝負の領域を限定して、たとえば「相手チームよりも声が出ていた」という一事をもって自ら慰めとするのは、笑うべきことではあるにせよ、仕方のないことではないか。愛するということは第三者の視点では笑うべきことである。そして、それを仕方のないことだといえるのはそれを経験するものに限られるだろう。時間に対してこれをコントロールできないまでも、記述することに専念し、それにわずかな、取るに足りない満足をおぼえるのは仕方がないことだ。空をとぶことができないにもかかわらず、それを望むのも仕方がないことだ。人が歌うのも、陽気な人生をすごそうとするのも、電車に乗って大事な人に会いに行くのも、すべて仕方がないことだ。そして、笑うべきことだ。それをすることによって、むざむざ限られた時間を費消しているのだから、笑うよりほか仕方ない。
 
 
 

 

還らぬ時と郷愁 (ポリロゴス叢書)

還らぬ時と郷愁 (ポリロゴス叢書)

 

 

 ひとは、前を見るように前向きに目がある。しかし、また、振り返ることもできる。 

 

 

「サキ傑作集」の奇妙な読後感について

 

「サキ傑作集」 を読んだ。

 

サキ傑作集 (1981年) (岩波文庫)

サキ傑作集 (1981年) (岩波文庫)

 

 

この世界にはさまざまな小説があるが、異色の小説というものだけはない。
とにかく読めば読むほど、小説はどこかのジャンルに片付けられる。もし誰もが読んだことのない空前絶後の小説があっても、それがつまらない作品であれば読者のところまで届かないだろうし、反対にすばらしい作品であれば、その小説は一挙にひとつのジャンルになる。
たとえば、カフカの小説はまさしく異色だが、カフカの名前とともに彼の小説はほとんどすべての小説読者に知られることになった。もはやカフカの小説は異色ではなく「カフカ」である。
しかし、それまでカフカ以外の小説をじゃんじゃん読んでいて、カフカを読んでいない小説読者がいたとして、彼または彼女が何かのきっかけで、はじめてカフカの小説を手にとって読んだところを想像してみると面白い。その時、カフカについての前知識はなければないほどいい。おそらく「何だこれは」とびっくりするだろう。つい「これは異色の小説だ」と呟いてしまうかもしれない。
僕が「サキ傑作集」ではじめてサキを読んだ感想はそれに近い。サキの書く短編が「異色の小説」に思えてならなかった。
サキの面白いところはその違和感にあった。話のオチの付け方やオチ自体はそこそこ平凡なのだが、話の短さに反して人物描写が綿密なのだ。長編小説、少なくとも中編小説のような落ち着いた語り口をしていながら、パタリと終わってしまう。読んでいてなんとなく打ち切り感があるのである。外部のどうしようもない力がはたらいて否応なく終わらされているように感じられるのだ。それでいて構成自体はこれしかないという完成度を持っている。物語は短くまとまっているが、それに文体や視点の置き方がともなわないのである。
解説を読んだところ、モーパッサンという短編の名手がいて、サキの小説はそれに近いらしい。「短くまとまっていて、言葉を精選し、意外な結末を用意する」その特徴の付け方はわかる。「同時代の小説家の怪奇趣味の影響もある」それもわかる。しかし、それらの言い方だったらエドガー・アラン・ポーでもいいし、おそらく短編怪奇小説というジャンルではポーのほうが長じているのだろうと思う。
サキの小説にはなんだかわからないところがあり、そのなんだかわからないところが面白いのである。何を目論んで小説を書いたのかがさっぱりわからない。その当惑は、読者を楽しませようとするサーヴィス精神が見られることによって尚更つよくなる。そういうサーヴィスがなければ、もっとも単純に片付けられる。「書きたいものを書いたもの」。
オチに注目させようとしているが、その実、本質はオチとは無関係のやや皮肉な人物描写にあるようにも思えるし、話全体の寓話性にあるようにも思える、と思わせようとしているようにも読める。
おそらくサキは読者をこれっぽっちも信用していない。そして、爪の先ほども信用していない読者にむかって、彼らを喜ばせようと短編を書いているのである。そのうえ、そういう小説家にありがちな開き直った職業作家らしいところも見られない。なぜなら描写はあくまで綿密で、不必要だと思えるくらいに言葉を選んでいるからだ。なぜこんなものが今僕の目の前にあるのかと、不思議に思わずにはいられない小説として「サキ傑作集」は存在している。ページを開けば、ちゃんと言葉が書いてある。