ウォーキング・ミュージックとランバンを退任したエルバス

 
読めない本には決まりがある。
一文の中にある単語の2つまでが分からなかったら、その文章は基本的に意味を結ばない。
一ページのなかに意味を結ばない文章が2つあったら読み通す気が失せる。3つで完全になくなる。
僕が最近読んだ読めなかった本に『服はなぜ音楽を必要とするのか』(菊地成孔)がある。
 
天才アレキサンダー・マックィーンはフェミニン勢力が一斉に後退させた黒を徹底的に使い、チャンピオンベルト風のグリーク・アイコンと胸元のカット(フォンタナの「空間概念」を想起させる、痛いまでに鋭い切り口です)に執着し、発狂したリアルクローズといった趣き。
 
この文章は、僕にとっては、アレクサンダー・マックィーンという天才が発狂した趣き、ということしかわからない。ひとつのことに異常なほど執着するのが「天才」のイメージなので、【徹底的に・執着】というワードが天才の肖像にそれらしい陰影をつけているように思われる。
文章はこうつづく、
 
二〇年代にドイツで隆盛を誇った「頽廃芸術」の女神を思わせる、ある種の変態性/様式性は完成した感さえあります。奇矯さで名を成した彼が、一転してリアルクローズ「風」なレディスを作ることで見せた光景は、内在していた女性への攻撃的マゾヒズムが開花した印象。音楽はヒステリックかつセクシュアルな絶叫とギターに満ちたロック使い。完璧です。

 

まず、自分は音楽についてまったく詳しくない、そして、ファッションについてはもっと詳しくない、だから、アレクサンダー・マックィーンが音楽の天才なのか、ファッションデザインの天才なのかということさえ、この文章だけではわからない。
それでもこの本はなんとなくで読める。『服はなぜ音楽を必要とするのか』というタイトルに不明瞭な点など欠片もない。もっとも、副題の『「ウォーキング・ミュージック」という存在しないジャンルに召喚された音楽たちについての考察』になるとちょっとわからないところが出てくる。それでも「ウォーキングミュージック」なるもののイメージを浮かべることは難しくない。
なんとなくイメージを浮かべ続けるだけで一冊まるまる楽しんでしまった。僕がイメージで思い浮かべたウォーキングミュージックは、通学通勤のさなかにアイフォーンのイヤフォーンを耳に突っ込みながら歩く日常の風景である。もしくはレディガガを大音量で聞きながら(もちろんイヤフォンで)御堂筋を闊歩して楽しんだ記憶である。しかし、そのイメージは本文で訂正された。実際の「ウォーキング・ミュージック」はパリコレに代表されるファッションショーでかけられる音楽のことだ。この本の筆者(音楽家:菊地成孔)はファッションショーの音楽がモデルの高度に洗練されたウォーキングによって無視されるさまを、MなのかSなのかわからないが、彼一流の変態性をもって嗜好している。モデルによって音楽が無視される様子がなんらかのズレを生み出し、ファッションショーという映像作品に独特のリズム感・うねりを創りだすことになっている、ファッションショーという演し物、その全体を偏愛している。
この本を読んで僕にわかるのは、文章のもっているリズム感と偏愛の異形だけだ。音楽界もファッション界も、片足の爪の先でソフトタッチしたこともなければ、その映像と対峙したことさえない。ツイッターでフォローしている「Fashion Press」が定期的にポストするファッション界のニュースで「エルバス退任」の報を受けたことを覚えているぐらいだ。エルバス誰やねん、太ったかわいいおじさん、という記憶が奇跡的に隅っこの方にかすかに残っていた。
 

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ランバンのアルベール・エルバス(すこし前にランバンを退任した)
 
文章のドライブは意味が通じないでも楽しんだりできるものらしい。最近、『おくのほそみち』という昔の人が書いた旅行記を読んでいるが、あれも意味のほうをなんとなくで済ましておいて、音をメインに読んでみるとあれでなかなか結構おもしろい。『服はなぜ音楽を必要とするのか』にもそういうのと似たような感じがある。
今ではグーグルという電子辞書的なものを誰もが持っているのだから、調べたいところ、どうしても気になる箇所だけサッと調べてみてもいい。しかし、基本的な情報はさりげなく文章に入れ込んでくれているので、服と音楽の関係を追っていくだけで、なんとなくのイメージは掴める。
 
意味が分からない二つの要素があって、それでも僕にわかるのは、それらの関係がない(もしくは関係がうすい)と思われていたものに渡りをつける行為である。文章の接続や非接続、転調による意味の流れ。水の元素がどうだとか知らなくても、高いところから低いところに流れていたらそれは川で、川に流れているのは水で、というように。なんとなくでもわかるところまではわかるもんなのだ。
なんのこっちゃわからない文章には、このような文章の快楽(エクリチュールというらしい)を生のまま味わいやすいというメリットがある。書かれてある事の内容を理解するときにも快楽的な何かは発生すると思う。それは好奇心の満足だったり、知識の蓄積だったり、文化的見栄の建設だったり、何にせよ文章を読むことの副作用として得られる。本の虫以外は副作用のほうを主な目的にするものだけど。
快楽とか言い始めるとゴールはもう近い。音楽でもファッションでも、ノリは近くて、それは快楽原理の周辺をぶらついているからだ。いわば、われわれが興じる趣味はみな快楽という星の惑星系なのだ。
 
現代的の人間が快楽に近づこうと思えば、すこし入り組んだ道を歩かねばならない。急がば回れというわけで、快楽はいつも角をいくつか曲がった先にある。角の曲がり方にも作法がある。作法には善し悪しがある。というわけで、どの道が、そしてどんな歩き方が、ファッションショーの世界でいうところのエレガンスを表現するのか、または逆のものを表現してしまうことになるのかということを季節とコレクションの巡りで判断し批評する本書は、快楽に近づこうとするわれわれのよき副読本になることだろう。
『服はなぜ音楽を必要とするのか』、本棚の四段目やや端のほうに仕舞っておけば、回り回って具体的な役に立つ日も来るのかもしれない、なんて。
 
 
 ランバンを退任したアルベール・エルバス