リズムが求められるとき

 

こないだの日曜日、ホドラー展を見に行ってきた。

去年、日曜美術館というNHKの番組でホドラーが取り上げられているのをたまたま見て「これは見に行かねば」と思って見に行った。が、期待感が高すぎたのかそこまで強い印象を残さなかった。

というより、日曜美術館で見た時点での印象が強すぎたせいで、実地に見るのが「おさらい」のような感じになってしまったというのが実情に近い。ホドラーはテーマ性の強い画家で、そのテーマが「リズム」だということもあり、かなり興味を持って絵のリズムを感じ取ろうとした。結果、すこし狭い絵の見方になってしまった。もっと言葉に捉えられないような自由な絵の見方をしたかった。最近では絵を見ることにも慣れてきていたつもりだったのではからずも初心に帰らされた気分。なんにも知らないぐらいのほうが絵を楽しめる、というのは言いすぎにしても、なんにも知らないつもりで絵を楽しむスタンスは大切だと思う。絵にかぎらずなんでもそうなのだろうが。

 

ホドラーのテーマは「リズム」「パラレリズム」というもので、かなり特徴的だ。美術史はまるで知らないのでいい加減に言うのだけど、同時代の絵から浮いているような気がする。パラレリズムというのは平行主義、似た形態を横に並べることでリズムを創りだそうとする方法だ。ズラーっと並べること、「反復」によって印象の強度を高めるというもので、その統一感は見ていて息苦しくなった。

あるアプローチが息苦しくなってしまえば、そのアプローチのすべてが息苦しく思えてくるもので、反復による印象の強度が裏目に出てしまった。風景画にも人物画にもほとんど食傷気味で、無惨な気持ちになった。絵を見てこういうことを言うのもどうかと思うのだけど見苦しかったというのが率直な感想になる。

身体も自然も「リズム」のための手段のように見えて、画家によってポーズをとらされているとしか思えなかった。白い雲にまでポーズをとらせるその徹底ぶりには舌を巻くけれど、雲好きの一人としてはどうも落ち着けないというかそわそわしてしまった。

テーマがはっきりしているというのも考えものだと思った。

 

だが、テーマがはっきりしていることの副産品として、そこからの逸脱があざやかに見られるということがある。今回の展示では「シャンペリーの渓流」という絵がオアシスのように輝いて見えた。パラレリズムは切り取られた空間にリズムをもたらすための手法だが、「シャンペリーの渓流」は切り取った時間にリズムを与えようとしているかのように見えた。流れる水と留まる岩との対照を描いているようで、それらが横に続いている印象である。それでいて画面にシンプルでこだわらない奥行きがある。

これはホドラー晩年期の作品のひとつだが、新手法を試しているようで、本人はまだまだ生きるつもりがあったように見える。おそらく本人には晩年という発想がなかったのではないか。そういうことを想像すると見ていて楽しくなる。想像の余白があるほうが絵は楽しい。

展示されていた「シャンペリーの渓流」は二作品あって、ひとつは岩と水の2種類からなり、もうひとつは岩と水と緑の3種類からなる。両者ともに画面の奥から手前にむかって水が流れていく構図なのだが、前者は水の流れる先が隠されているところに閉塞感があって、後者は水が流れていく先が画面手前に描かれているところに開放感がある。緑の有無も明暗を分けている。

 

明るいリズムと暗いリズム、あるいは開いたリズムと閉じたリズムというのが、同じリズムという言葉の中にもあって、そのちがいを感じ取ることができれば面白いのではないかと思う。僕のリズムに関する考えに、2がもたらすリズムは閉じたリズム(暗いリズム)で、3がもたらすのは開いたリズム(明るいリズム)という法則があり、ホドラーのパラレリズムによって描かれる人物の数に注目して絵を見たらその通りに分かれているような気がしだした。「春」という明るいタイトル、明るい色の作品があって、この絵には若い男女ふたりが描かれているのだが、なぜか暗鬱な気持ちにさせられた。ホドラー展では一見して明るい絵が少なくないのにどこか不安にさせられることが多い。反対に一見して暗い絵のほうが落ち着くことが多かった。具体的には、白い服を着たジジイたちが下を向いて並んでいる絵のほうが、若い女性が振り向きながら並んでいる華やかな絵よりも見ていられた。興味深いことに「オイリュトミー」(よきリズム)と題されたのはジジイたちの絵のほうだった。今回の展示にはなかったが「夜」という有名な絵もおそろしいというよりは微笑ましいようなところがある。ひとがおそれている表情というのはどこか見るものを和ませる。

 

言葉は意味を明示する。言葉はあらゆる広がりをひとつにまとめ、収束させる。その収束には雑なところがあって、繊細な部分をカットしてわかりやすくする。言葉の芸術における暗示する表現は、わかりにくいもの(感情)をわかりやすくして(言葉化)わかりにくくする(感情化)という高度な行ったり来たり(無意味な右往左往)である。純文学ではわかりにくければわかりにくいほど価値が高いというように揶揄されるが、わかりにくくすることが目的になっている(ようにみえる)作品が少なくないからだと思う。作品をわかりにくくすることはわかりやすくその価値を暗示することだからだ。その反動として、すべてをわかるもので満たすという方向性があるが、その収束性には言葉同様の雑さがある。わかりにくいものに価値がないというのは、わかりにくいものにしか価値がないという意見よりもつまらない。

オイリュトミーとはよくいったもので、「よきリズム」というのは「あしきリズム」を措定する。それは「リズム」という以上の広がりをリズムに持たせることである。よきリズムとは? あしきリズムとは? ふつうのリズムとは? シンプルな形容詞ひとつでよくわからない領域へ連れだしてくれる。

しかし、規定することによる反作用としてあらたな疑問が広がることがあるにしても、疑問を持たせないような方法を取るなら、または、疑問を抱かない相手を対象とするなら、言葉は内容を決定することになる。「良いと書かれてあるから良いのだろう」という受容はとくべつ軽率なものではない。興味を持たない対象には杜撰なラベリングで充分なのだ。どれだけ暇な人でもすべてを判断する暇はない。

言葉は非常に簡単でインスタントである。安易であるだけに強力である。

言葉によって印象の統一がいとも簡単に行われてしまう。言葉によって感動が収束されてしまう。そのようにしてしか伝えることができないにしても僕は「回収される」ことには抵抗がある。かさばらない形に折りたたたまれて回収されるのは嫌だ。回収されるにしても異常な引力によって問答無用で吸い込まれたい。言葉の安易さは気晴らしにはもってこいだが、それ以上のものではない。自分が安易だと考えるものに自分を預ける気にはなれない。その意味でも「わかりにくい」のは大切なことだと思う。理解不可能なものに興味を持つのはむずかしいが、理解可能なものに満足することはよりむずかしい。理解不可能なものはひょっとするとわかりにくすぎるだけなのかもしれない。理解できないのが悔しいというのはモチベーションになりうる。

僕はピカソの絵がわからない。だから「ピカソの絵はすばらしい」という人には興味がある。いろいろ聞いてみたいと思う。「ピカソの絵はわからない、でもいつか良さがわかるようになりたい」という人にはシンパシーを感じる。「ピカソの絵は笑っちゃう」という人は友達だ。「ピカソの絵」はリトマス試験紙として優秀だと思う。なんにせよ理解を超えたものの取り扱い方にはその人のスタイルが表れると思う。

 

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ルートヴィヒ・クラーゲスは「拍子は反復し、リズムは更新する」といった。

拍子は反復し、リズムは更新する。

これは「円環/螺旋」の関係にも当てはまる。円環は反復し、螺旋は更新する。円環は同じところをぐるぐる回るだけだが、螺旋は同じところをぐるぐる回っているようで少しずつズレていく。微妙なズレに注目するというのが「統一の印象」の逆説的な効果なのだと思う。

そのような意味で、螺旋すなわち〈渦巻き〉というのはリズムにちかしい。ホドラーの絵を通して見るうちに、その絵の中に〈渦巻き〉の描線が表われはじめるのを見た。雲の描線がはじめは安定していたのに、だんだんと曲がりはじめ、S字になり、展示の後ろのほうでは露骨に渦を巻いていた。

〈渦巻き〉というのはあやうい。油断すればたちまち円環に陥ってしまう。それに抵抗するため平行〈パラレリズム〉を保とうとしたのはホドラーのポーズではなく必然だったのかもしれない。いや、ポーズでもあり必然でもあった、というほうが実態に即しているだろうか。

 

いずれにせよ明確なテーマを持って描くことに取り組んだ画家の絵が、テーマからの逸脱・ズレをその絵の魅力として持つことになるのは当然のことだといえるだろう。それを彼自身コントロールしていたかどうかはともかく。

〈渦に巻き込まれていくパラレリズム〉としてホドラーの絵を見たとき、そこに見られる固有のリズムはオイリュトミーと名付けられるだろうか。

 

 

フェルディナント・ホドラー展 公式図録

フェルディナント・ホドラー展 公式図録