文学愛好者の敗北主義について

 

知り合いに負けることをものすごく嫌がる女の子がいた。

大体の人が「なんとなく負けたくないな」とか「勝つのと負けるのとだったら勝つほうがいい」と思うような時はもちろん、ほとんど勝敗を意識しないような場面でも、その子は負けることをおそれ、自分が負けそうとみると勝ちのリターンがいくら大きかろうが関係なく勝負を拒んだ。彼女は負けることを極度に嫌った。

僕はそのことを滑稽に思ったし、そういうスタンスがすでに負けてるとは思わないんだろうかと暗に彼女の考えを伺ってみたこともあったが、言いたいことはお見通しとばかりに睨み返されたり、へたくそな話題転換ではぐらかされたりしたものだった。

でもまあ基本的には仲が良かった。僕が表向きは勝負にこだわらない態度を保っていたことあって、人間関係を勝ち負けで捉え、つねに緊張しているその子も気楽に接することができたんだろうと思う。

その子の負けず嫌いは筋金入りで、いつか何人かでトランプゲームをしようという流れになった時、ふらふらっと輪から外れていった。その時は人数的に他のことをしているグループもなかった。僕たちがトランプで遊んでいるあいだ何をしてたんだろう。思い返して考えるとエキセントリックというか、かなり徹底していたんだなと思う。ちょっとしたゲームでも勝敗がつくものは自分が得意じゃないかぎりやらなかった。

その子が桃鉄というすごろくゲームにハマった時期があり、そのときに「桃鉄やろう」と言われたことがあった。自信を持って勝負に誘ってきたことは明らかだった。僕はその時「桃鉄て」みたいな感じで適当にはぐらかしたんだけど、本当のところ、僕も僕で「負けたくない」と思っていた。どうしてかその子に対しては負けたくないという気持ちが強かった。当時の僕の基本スタンスは、「勝負するかぎり負けることもあるけれどそれも含めて勝負の楽しみ」という穏当なものだったから、勝負を回避するという形での負けず嫌いはちょっと例外的な振る舞いだった。そういうこともあって勝負を避けたとは思われなかったろうと思う。勝負を避けるのも負けのようなものだとその時は思ったのでその点は大事だった。実際彼女の言い方にも勝負しようと言ってみて相手がそれを避けるようだったら私の勝ちのようなものだというニュアンスが漂っていたからその手に乗らないことは重要だった。人の負けず嫌いを笑えない。

 

いわゆる文学作品を読んでいると、勝利よりも敗北をみつめる場合が多くなる。感覚的には8割がた主人公は敗北するし、いわゆる負けの美学の「美」を表現したものが圧倒的に多い。とはいえ、それは勝敗という枠組みで考えるならばということで、表現されているものがそれだけではないということは断っておく。それでも、

もっとも多く愛するものは常に敗者であり悩まねばならぬ。

 こういう言葉を見つけて、ときに金色の気分になるのもたしかなことだ。

最近読んだカミュなんかも、不条理という言葉でフィーチャーされることが多いが、ようは個人にとっての最大の敗北(=死)を描いている作家で、そういうものばかり読んでいると妙に物分かりが良くなる。負けることもあるよねなんてヘタれた台詞を吐いてしまったりする。金色の気分は39度のお湯ぐらい気持ちのいいもので、まあいいかと思ってしまうのだ。

そんなことではいけない、絶対に負けられないと思って緊張感をもってゲームにのぞむ、もしくは勝負することを無理にも避ける姿勢をとらないといけないと思った。しまって行こう。あくまで勝ちにこだわろう。そう思った時、彼女の負けず嫌いを思い出したのだった。滑稽だけど同時にかっこいいと思ったことも。

 

負けず嫌いのその子とはほとんど勝負をしなかった。唯一だったかもしれない勝負で印象に残っているのは、友達の下宿先で深夜までさんざん飲んで酔っ払ってやったダンスバトルだ。音楽なしで、お互い独りよがりのリズムで手足をむちゃくちゃに伸ばしたり引っ込めたりしていただけだけど、それは正真正銘ダンスだったし、ちゃんと決着もついた。

当然僕は僕が勝ったと思った。彼女も同じことを思っただろう。ほかの友達はつまらなそうにしていた。部屋の主は迷惑そうだった。

 

もっとも多く愛するものと宅飲みの部屋の提供者は常に敗者であり悩まねばならぬ。