女子!


好きというのはどういうことなのか。これまであまり考えられてこなかった問いを問う時が来た。


先日、テレビ初放送になった「風立ちぬ」を見た。続けざまに漫画「ハウアーユー?」を読んだ。この2作品に共通するのは、好きというのはどういうことなのかについて考えさせるところだ。それで自分なりに考えてみた。


好きというのはどういうことかという問いと似て非なる問いとしてなぜ好きなのかという問いがある。

なぜ好きなのかという問いにはあまり意味が無いことをジブリ映画は教えてくれる。ポニョでもそうだが、主人公とヒロインは一瞬でお互いを好きになる。そこに理由を見ることは不可能だ。解釈するにしても無理矢理の解釈しかする余地がない。そもそもあらゆる好みは後付けの理由にすぎない。誰も真剣に自分の好みについて考えたりはしない。考えるのはあくまでも相手の好みであって、そのヒントを引き出す会話をするためにお互いが自分の好みを仮構する。たとえ傾向があっても例外はいくらでもある。大体においてもっとも大事な部分はいつも例外の中に含まれる。例外を求める心の動きの延長線上に好きがある。前に倣っているだけでは好きになることはできない。

もう少しこの部分を噛み砕いて説明すると、人は自分自身の大事にしている部分を相手の中に見ようとする。自分の大事にしている部分というものは自分の周りが持っていないものだったりすることが多い。周囲と見比べて自分が秀でていると思うところを自分の特徴と考えるのであって、だれもが持っている要素を自分の特徴だと捉える人は珍しい。笑顔がいい人は笑顔を、頭がいい人は頭を、センスがいい人はセンスを、その対象はなんであっても周りとちがう部分をこそ自分の特徴と考え、それを好きになることで自尊感情を高めようとする。そのように自尊感情と結びついた自身の特徴を別の人の中に見つけるとその人を例外的な人だと感じるのである。これはシニカルに見ようと思えば簡単に見れる見方ではある。自分はそんな見方をあえてしようとは思わない。しかし好きになるということのナルシス的な部分をあくまで否認して自分の好きはそれとはちがうと頑なである気もない。僕は普通程度に自分のことが好きだし、その好きに基づいて人のことも好きになると考えている。そしてそんなふうに好きになること自体、自分は好きだ。べつに人相手だけではなく、その対象はいろいろなものに向かう。広く多くのものを好きになることが自分の特徴だと思う。良くも悪くも、前だけ向いては歩けない。

僕は普通程度に自分のことが好きだと言った。ただ、それが歪んでいる可能性は否定出来ない。僕は自分には普通だと思えることを普通と言うのであってそれが他から見れば例外であろうとわりに気にならない。僕の考えでは「好き」も「普通」も主観的な言葉遣いの範疇であって、客観的に見て好きがあり得ないように客観的に見て普通もあり得ないと思っている。「自分は自分のことを客観的に見れるんです」と宣言する人のことを僕は信用出来ない。その人の普通は僕から見ればどこか歪んでいる。歪んでいるからといって普通じゃないとは思わないけれど、真っ直ぐじゃないものを真っ直ぐだと言われると自分の感覚との齟齬をきたして自分も相手も混乱することになるので少し距離を置かないとしょうがない。適切な距離を保てればお互い余計なストレスを抱かないでいられる。

しかしこの距離感覚がおかしくなってしまうことはある。それは好きということの副作用でもある。なんでもそうだが、いいことというのはいいことだけではない。いいところもあればわるいところもある。好きというのもその例外ではない。たとえば距離感の倒錯という一面を持っている。相手の特徴を自分の特徴と結びつけて考えるのは距離感の倒錯である。自分が守っている規範を相手にも厳守させたいと考えるのも距離感の倒錯である。一方で、相手が喜ぶと自分も嬉しいというのも同じ距離感の倒錯であったりする。ただ距離感の倒錯は他人への圧迫になる場合がある。当然といえば当然なのだが自分と他人はいくら似ていたとしてもちがうからだ。

距離感の倒錯を十把一絡げに禁じるのをいいとは思わない。そんなことをすると「良いもの」ばかり増えて「好きなもの」がなくなってしまうのではないかと思ってむしろ反対である。人は人、自分は自分、みたいに線を引く考え方はバランスを取るために必要だと思うが、それを突き詰めて「嫌われる勇気」とまでいってしまうのは普通じゃないと思う。普通は人には嫌われたくないし、むしろ好かれたいと思うと思う。そういう共感を通して円滑に回っている関係性を壊してでもというのは相応の事情がなければならない。事情があるなら壊してもいいという考え方はつねに警戒しておきたい。


前置きが長くなったが、「風立ちぬ」は好きになるということがどういうことなのかということを過不足なく描き出しているという点で優れた映画だと思う。劇中の言葉によっても説明されているが「美しい」のである。視覚芸術には言葉によって説明しないほうが美しいという価値観がある。しかし「風立ちぬ」を見るとそれは二流の考えだと思わせられる。言葉も映像も美の一部なのだ。それをあえて分離しようとするのは映像に自信がないことの表れだと思う。監督が自分の作った映像を指して登場人物に美しいと言わせるのは並大抵のことではない。しかし劇中ではこの究極の自己言及がいともあっさり成立している。何が美しいと思うかということがはっきりしていることが好きということなのだ。

好きということにはつねに後ろめたい思いがつきまとう。それは何が美しくないかということがはっきりしすぎているということでもある。そんな物の見方で結果が良くなるわけがない。それでも一心に美しさに向かう。それはやはり罪だ。知らないとは言わせない。


漫画「ハウアーユー?」は失踪した夫を思い続けて破滅する女の話だ。ツミちゃんと呼ばれる隣家の女の子の目線で語られる。ラスト近くでツミちゃんは自分の好きがどういうものだったかということを考えようとする。おとなりの奥さんの好きがどういうものだったのか想像しようとする。ひどくこんがらがった距離感の中でそれらを整理しようとするツミちゃんの試みがうまくいくとは到底思えない。それでもツミちゃんは試みる。自分が抱いたあの好きという気持ちはなんだったのか、彼女を破滅させた好きという気持ちはなんだったのか、好きというのはどういうことなのか、彼女なりのやり方で知ろうとする。そんなツミちゃんの無謀な挑戦のたびに、同じ時間を過ごした二人の記憶が蘇るのは美しいことだと僕は思う。



ハウアーユー? (FEELコミックス)

ハウアーユー? (FEELコミックス)