【緩募】畏友

 

若者にへつらい、思考の師たらんとするような連中は信用するな。(『カイエ』シオラン

 

自分は今まで尊敬する人に出会ったことがない。「こころ」の先生のような。

だから師匠というものを持ってみたいような気持ちになることがある。その人が「白」といえば黒いものも白くなるような絶対的な存在としての師匠。

……やっぱりそんなのはごめんだ。というより、尊敬してる人でもその人が「白」と言ったものが自分には黒く見えたら「あ、この人ちがう」と思う気がする。その瞬間そう言わないでも、夜寝る前とかに「やっぱあの人ちがったな」と思うと思う。自分は師匠を持つ資質に欠けるようだ。

尊敬する人の条件としてその人に「畏れ」を抱くかどうかというのがあると思う。畏敬の念という言葉もあるように、尊敬には一種の畏れが混じるものだと思う。自分はそういう畏れを現実の他人に対して抱いたことがない。小・中学校とこわい先生や部活動の先輩に対してビビリ倒していた自分がこんなことを言っても我ながら説得力がない気もするが、当時でさえ、ちゃんと考えれば「この人、何言ってるんやろ?」みたいなことがよくあったし、今から考えると右と言ったら右、左と言ったら左というのは一種のシチュエーションコメディとしか思えない。目上の人/目下の人というのはコント的に演じているというのが実情であって、本質的にはしょうもないことだと思う。尊敬していない人につかう敬語というのはひとつの皮肉だと思うし、そういうのは使われてもこそばゆいだけでひとつも嬉しくない。むしろいたたまれない気持ちになったものだった。最近ではもう慣れてしまったけれど。

ただ今になって思うのは、そういうしょうもないコントをまじめな顔してみんなで成立させている状況というのはそれはそれで上等というか、けっこう悪くない冗談だと思う。たまに、お互いわかってやっている感というのがなんとなく感じられる瞬間があってその時の「心の目配せ」みたいなのが楽しい。

 

よくよく思い返せば自分には「畏友(?)」というのがいる。4人ほど。男男女男。彼らに共通するのは今や連絡が取れなくなってしまっているということで、とっても残念だなと思い返すたびに思うのだけど、たぶんだけど、今も普通に会えてたら畏友だと思わないと思う。当時、幼き頃の自分は彼らのことを尊敬していた。その状態のまま付き合いが終わったから針が尊敬のままで止まっている。過去のことは美化されがちでもあるし、その点でも彼らは得している。

当時から今になるまで自分の外向きの姿勢で一貫しているのは、畏友(?)を求めていることだ。自分は尊敬する人を探しているらしい。その甲斐あってか、会わなくなったらたぶん畏友になるだろうと思う人は何人かいる。いうなれば「暫定畏友」だ。なんとも敬意の感じられない呼称だが、それこそが敬意の裏返しというか「自分は人生をあまりに重要なものと思っているのでまじめにその話をすることができない」と言ったオスカー・ワイルド的な照れ隠しの敬意だと思う。

暫定畏友の前では自分はよく笑っているような気がする。一個も畏れてないじゃないかと思われるかもしれないが、ちがう、そうじゃない。人間というのは極限にこわいときにも笑うらしいのでそれ関係なんだと思う。いわゆる「こわいひと」や「あたりの強いひと」の前ではこわがっているフリをしなければならないので、その時に自分が本当はこわがっていないことが明らかになる。そうじゃなく、触れ合っててもべつにこわくない、なんだったら楽しいしかない、そういう人を相手にしている時のほうが自分はこわい。もちろん瞬間瞬間には超楽しいんだけど、なんでかわからないけど急に激怒するんじゃねえかとか、おもんないと思われてるんじゃないかとか、内側から湧いてくるこわいがある。内側から湧かれるとすこしのこわいでも本当にこわいという気がする。いつもニコニコ笑っているひとほどおそろしいっていうのに通じるところがある。

あと、暫定畏友たちは単純に本当におもしろい。負けたくない。

それでか。自分は今まで尊敬する人に出会ったことがない。あとになって尊敬することになる人と接していると尊敬してる場合じゃないと思うからだ。感覚的には楽しさで忙しいし、思惑的には負けん気で忙しい、尊敬している場合じゃない。

 

 

たのしいよ、あなたといると

きもちいいよ、冷たくて

はげしいよ、こみあげてくる、悦びが。