風雲急を告げとるで

 
お褒めに預かり光栄です。
 
「声に出して読みたい日本語」という本がいつかベストセラーになったことがあったが、僕にもいくつか声に出して読みたい、というか「使ってみたいこのフレーズ」というフレーズがある。↑の言葉もそのひとつ。
 
基本、会話において機会なんてものはあっという間に過ぎ去る。よっぽどつよくそのパンチラインを念頭に置いておくか、よっぽど輝く幸運の星に生まれついているかしないとそういうフレーズは使えない。なんとなく言ってみたいなーと思いつつ一生使うことのないままでしまう言葉はいくらでもあることだろう。
 
 

それではVTR、どうぞ。

 
 
山田孝之東京都北区赤羽」はドキュメンタリードラマとして出色の出来である。管見だが山田孝之ほどの俳優はそうはいない。同年代の俳優のなかで完全に頭ひとつ抜けている。画面に出ているとつい夢中になって追いかけてしまうような、不思議な魅力というかカリスマ性がある。また、このドキュメンタリードラマは現実と虚構の境界が曖昧なことも相まって、とても興味深い山田孝之ウォッチ映像となっている。山下監督特有のオフビート感に乗って、山田孝之特有の真剣さがガンガンに伝わってくる。
 
 
 
閑話休題。使いたいフレーズの話だった。
 
今ではツイッターがあるので、パッと思いついた使いたいフレーズをサッと使うことができて便利な事この上ない。なにか使いたい言葉を思いつけばそれこそノータイムで使える。
 
今ではまったくログインしていないが、ちょっと前にはミクシィの日記機能がそのポジションにあり、使ってみたいフレーズを勝手気ままに使いまくって文章を書いていた。より便宜なのはツイッターだが、使っていて面白かったのはミクシィのほうであったように思う。過去のことを美化している傾向、無きにしもあらずだが、おそらくフレーズを単体で使うことよりフレーズを適当なところに当てはめて使うことのほうがパズル的な感覚も楽しめて、よりつよいグッドバイブレーションを得ることができたんだろう。
 
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人間の語彙は「理解語彙」と「使用語彙」に分けられるらしい。理解語彙というのは読んで内容を理解できる語彙で、使用語彙というのはコミュニケーションにおいて利用できる語彙である。たんに語彙力・ボキャブラリーと言っても発信時に使えるか受信時に使えるかで区別できるのである。
 
理解語彙を増やすのは比較的容易い。本を読めば自ずと増えていく。しかし使用語彙は意識しないと増えることはない。なぜなら日常会話で使う語彙数はたかが知れている上に、頻用する言葉は限られているからである。
 
上述の数文に関しても、日常使うことはない言葉であふれている。「容易い」「なぜなら」「頻用する」このへんの言葉を自然に会話に織り込めると相当の手練感が出るだろうと思う。というか、もはやユニーク人間と認定しても差し支えないレベルではなかろうか。話し言葉と書き言葉には現代でもギャップがある。
 
 
話し言葉の語彙は書き言葉のそれに比べてかなり少ない。
 
「ああ」「いや」「うーん」「え?」「おー」
 

大学生の頃、この5個のフレーズだけ使って生活する実験を個人的にやってみたことがあるのだが、なんのことはない。余裕で2週間が過ぎ、そのことをもって自分の生活を見つめなおすきっかけにしたことがある。

さすがにそれは極端だとしても、ある程度まとまったフレーズが30個もあれば今でも結構なんとかなるのではないか。
会話における使用語彙は決して多くない。なんとなく考えているよりははるかに少ないと思う。
 
ところが、文章を書くという段になると使用語彙は一気に膨れ上がる。書き文字として「読む」場合、話し声として「聞く」よりもはるかに多くの情報を処理できるという受け手側の事情もあるんだろうと思う。発する側としても最前述べた通り、機を逸するということがないので、そのぶん自由に言葉を濫用できる。
 
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そういうわけで、言葉遊びの一環としてツイッターを駆使してみる、というのはどうだろう。思い切って「ブログを書いてみる」というのもひょっとすると面白い遊びになり得るかもしれない。言葉を闇雲に行使するのはそれだけでけっこう楽しいものだ。

もう少し言うと、そういうのはツイッターでも十分楽しめるけれども、120文字で長文感が出るのはちょっと窮屈じゃないかと思ったりもする。ずんずん書こうとしても、これからというところで制限文字数に達する。

 
でもなんだかんだ自由度が高いのはツイッターの方かもしれない。長文になると前後の脈絡というか文脈を考えて書かなければならないことも多い。ツイッターの強味は「書きっ放し」ができることだ。ツイッターに慣れると文脈を意識して書くのが難しくなる。実際にいま、進行形で苦労しているのが前後の脈絡の繋げ方とそのリズム感覚の調整だったりする。どこで改行するか、とか。
 
ツイッターもブログも一長一短あるけれど、べつにどちらか一方を選ばないといけないわけじゃない。そもそも面白くないならやらなければいいだけの話だ。
 

物事をむずかしく考える人はそういうのが楽しいからそうしている。それで正しい答えが導き出せるとは思っていない。正しい答えが導き出せると本気で思ってるなら、むずかしく考えているとは言えない。また、物事を簡単に考える人は何も考えていないに等しい。

結局のところ、その時々の気分に合わせて楽しい方を選べばいいのだ。
ゴチャゴチャ考えて楽しむか、なんにも考えずに楽しむか。

 

前者の楽しみとして「作文」はそこそこ有力だ。後者で言うところの「スポッチャ」ぐらいの楽しさはあると思う。