ホームレス小説「ニッチを探して」を読んで

 
島田雅彦の「ニッチを探して」はホームレス体験小説である。
現代の東京を舞台にこれほど異世界的かつリアルな物語が描けるということにまずは驚く。お金がないというだけで、東京という街の様相はまったくちがって見える。コンクリートジャングルのサバイバル術は都市によって異なるはずだが、「ニッチを探して」ではその東京バージョンが紹介される。
最近思うのだが、感情というのは結構すぐ限界が来る。たとえば隣人に対して想像力を持てという教えも、つとめて理性的であろうとしなければ守れない。感情に流されては、隣人に対してその場しのぎの同情を一時的に寄せるのが関の山である。
ホームレスが図書館に来ればくさい。近くの席に座られると災難と思って席を移動せざるを得なくなる。その時、自分はホームレスに対して攻撃的な感情を抱く。彼らの事情というものに思いを馳せようとはしない。一方、ホームレスが道端にへばっていた場合、かわいそうな気持ちになる。道端なので通り過ぎることができるし、実際に呼吸を止めて通り過ぎながら、かわいそうに思う。通過できるからこそ同情が可能なのである。
このように自分の感情の動きを冷静に見つめると、いかにも冷淡なところが目につく。しかし、自分は感情的に温かい人間であると感情的に自認している。温かい冷たいは措くとして自分は感情の人だ。
自分は暑さ寒さに弱い。とくに超満員の暑い電車内などは途方もない不正義だと感じる。そこにホームレスが乗りあわせて間近で異臭を放たれると、おそらく敵意を抱くだけに留まらず、彼に敵意をむき出しにすることを自分に許してしまうのではないかという不安がある。
ところで、自分は自分の考え方として、自分より弱いものに対して攻撃的な態度を取る人間のことを糞だと考えている。そういう糞人間はあきらかに自分よりよわいので、彼らに対して糞だと言うことはしないけれども、頭のなかでは糞だなあと思って見くびっている。こういう考え方をする自分が、感情的になるとホームレスに対して簡単に攻撃的な態度を取るようになると想像されるのはよくない矛盾である。
だから小説「ニッチを探して」によってホームレス初心者の藤原道長(主人公の名前)の行動や心情を追体験できるのは貴重である。何かについて考えるためには考えるための材料がいる。しかしホームレスの知り合いというのはあんまりいないものだし、いてもあまり付き合いたくない。ホームレスを小説として読む分にはくさくもなく、クーラーあるいは暖房の効いた快適な部屋で落ち着いた気持ちで感情移入することができる。それはニセの感情かもしれないが、本当の感情などない。あったら僕に見せてほしい。たぶんホームレスは気味がわるいというのがそれに近いだろう。そんな月並みなものに興味はありません。
社会生活者は優越感情の有無にかかわらずホームレスに優越している。感情的に倒錯した一部の人はホームレスに劣等感情を持つかもしれない。そしてこの場合の優越感・劣等感はどちらも本当の感情だろう。さしあたって僕はそのどちらにも興味はない。それらは感情のスタート地点であり、変化していくべきものである。僕は変化していく感情に興味がある。
感情は感情によっては変化していかず、同じ所をぐるぐる廻るだけである。感情は溢れさしてナンボではあるが、感情一辺倒で感情を溢れさせたとて、である。僕はそう考える。
ホームレスに対する優越感あるいは憧憬、そのどちらからスタートしてもいいが、「ニッチを探して」を読むとそれらが揺らぎ始めるのを感じる。揺り動かされるのは感情だけにとどまらない、感情を包括する何かである。

 

ニッチを探して

ニッチを探して