チェーホフ一読のすすめ

 

僕は別に、何か特別なものになりたいとも思わないし、偉大なものを創りだそうという気もないけど、ただ、生きつづけて、夢を見、希望をもち、どんなところにでも遅れをとらずに駈けつけたいだけなんだ……

 

ロシアには偉大な作家が三人いる。トルストイドストエフスキーチェーホフだ。

僕のなかではなんとなく、長男トルストイ・次男ドストエフスキー・三男チェーホフ、というイメージがある。ドストエフスキーの最高傑作とも名高い「カラマーゾフの兄弟」は3兄弟の話だが、それに当てはめてみても、次男イワンはドストエフスキーという気がするし、三男アリョーシャもチェーホフという感じがある。長男ドミートリーがトルストイというのは帳尻合わせなのだが、一応、個人的に印象が薄めだという共通点がある(印象は薄いけれども重要にはちがいないと捉えているところも含めて)。

僕は「カラマーゾフの兄弟」では純真な三男アリョーシャが一番好きで、ロシアの作家ではチェーホフが一番好きだ。しゃかりきだったり一生懸命なところがないのがいい。決して思いつめたりしないところに彼らの問題点が集約されているように思う。それは僕自身のものの感じ方に近い。それで親近感が湧くのだ。「3匹のこぶた」ではないが、三男は兄二人の成功や失敗を見て成長していく。どういう道を行けばうまくいくのか、どういう方向は間違えるのかというのを見て知った上で、自分の進路を選択することができる。あるいは、見て知った上でしか選択することができない。まっさらな道があらかじめ奪われているともいえる。三男はだいたいのことを経験するより前に知っているのだ。たとえば、イワンは深刻な悩みを抱えている人物であり、そのように悩むことが彼という人間を形作っているのだが、アリョーシャはイワンのように悩むことはできない。アリョーシャはイワンの悩みを知らされる人物である。何が悩みなのかを知っている人間が本当に悩むことはできない。解決策があるとかないとかいう次元の話ではなく、自分の悩みを正確に知り抜いている人間がその同じ悩みを悩みつづけることは不可能だということだ。知ったところで解決するわけではないが、知った以上はそれは際限のないものではなくなるのである。いわゆる底が知れるというやつだ。これはいけない。

底知れない恐怖と戦っている人がいるとすれば、「底知れる恐怖」というものに怯えている人間をえらい悠長なことぬかす奴だといって軽蔑することだろう。そう。じっさい悠長なのだ。しかし、悠長だからといって大丈夫かというとそういうものでもなく、大丈夫そうに見えて全然大丈夫じゃないというのが現段階での結論なのである。これがハムレットのいう「to be or not to be」問題である。「生きるべきか、死ぬべきか」。それが問題なのだ。シェイクスピアが活躍した400年前から、たくさんの底知れぬ恐怖が現実の人びとを繰りかえし襲った。それでも、悠長な、一見大丈夫そうな、底の知れている恐怖はポツリポツリと表明され続けた。恐怖なのか何なのかはわからないけれど、そのような傍目には眠たい感覚は今も生きている。

おなじ悠長なことに淫するのであれば、どうせなら興じてみよう、というのがチェーホフの基本スタンスであるように思われる。彼の問題意識が三男特有の「あらかじめ知っていること」にあったこともあり、彼は生前ペシミスト(厭世家)だという批判を受けたこともあるようだが、それはチェーホフの半分にも当たらないと思う。ペシミストでありながら「いたずら」や「聖夜」、「学生」のような短編を書き、「三人姉妹」「桜の園」「かもめ」などの華やかな戯曲を書いたというところにこそ彼の真骨頂がある。これらを読んで思うのは登場人物がやたらと「〜〜だったらなあ!」「〜〜したいだけなんだ」などと、「希望」や「願望」を述懐するということだ。

こういう言い回しは「〜〜せねばならない」「当然、〜〜してしかるべきだ」というような言い回しに比べて悠長にきこえる。緊急性が高いというか毅然として要求するのは規範意識を表わす言葉だ。「〜〜したいなあ」という述懐は悠長に響く。しかし、だからといってその内的必要性が少ないわけではないだろうと思う。むしろその必要性の度合いは素朴にもみえる「希望」や「願望」のほうにより多く含まれているのではないか。そこでは事の大小は問われない、傍からみて「あの人は野望が大きいね」「あの人は野望が小さいね」というようなことは、個人の「望み」の強弱とは本来無関係だ。達成のしやすさに応じて望みの強さは変わるものだから間接的に影響はあるだろうけれど。

しかし、僕の考えでは「ただ、生きつづけて、夢を見、希望をもち、どんなところにでも遅れをとらずに駆けつけること」より大胆で大それた望みはないように思う。この望みにくらべれば「なにか特別なものになりたい」とか、「偉大なものを創り出そう」という野望は控えめなものに思われる。

 

チェーホフのしたように「望みを持とうとすること」はどうしてもペシミスティックな態度へと通じてしまう。それでもあえて、さまざまな「望み」をチェーホフは描いた。ちっぽけな個人のちっぽけな望みを彼らに成り代わって書いた。思いつめず、当然望むことを望むかのように。

そんなふうなことが可能なのは考えれば考えるほど奇妙なのだけれど、そこまで突き詰めて考えずに「まあそういうものか」と思って読んだ時に、ここまで心なごまされる話はないと思う。自分なりの「望み」をもったすべてのひとがチェーホフの本をどれか一冊手にとってくれればなあ……!

忙しいひとにはTwitterチェーホフbotがおすすめ。可憐なセリフがTLに花を添えてくれると思うよ。

 

 

子どもたち・曠野 他十篇 (岩波文庫)

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