グレーゾーンの重要性について


物事の白黒をつけないでいる態度というのは重要だと思う。こうやって白黒つけられない領域の話をするとすぐに飛び出すのは、グレーという色である。白とか黒とかいうのはたとえの話なので、グレーを持ち出すのは正しい。なあなあとかどっちつかずとか、そういう煮え切らないものの象徴としてのグレーという色が自分は好きだが、せっかく色をたとえに出すのなら、有彩色をも用いたい。モノクロで話を通そうというのでは少し簡単すぎないかと思われる。話を始めた以上はなんとなく落とし所を持ちたいという人情もわからないではないが、ここはあくまで非人情に、色彩豊かに、収集がつかないところまで押し進めたいと思うのである。

自分が今好きな色は青である。その前は黄色であった。白黒つけないというためには何も判で押したようにグレーを用いないでもいい。自分は青色が好きであると言ってみればいい。話の分からないやつだと思われるかもしれないが、白黒グレーの簡単な話がわかったところでなんの自慢にもならないのだから、自分の好きなものの話をしてやればいいのである。話がわかるやつだといわれるためだったら、二項対立以上の観念は用いないでいい。Aかそうじゃないか、Bかそうじゃないか、それだけをただただ塗り固めていけばなんとなくの了解が得られる。話のわかるやつ、いいやつというのは人から好かれる。誰だって人から好かれたいから、なんとなく調子を合わせようとする。そんなとき、二項対立以上の観念を用いてうまく調子を合わせようとするのはむずかしい。音楽であれば簡単なことでも言語コミュニケーションにはむずかしい。そういうことはままある。音楽はすごい。みんな音楽が好きだし。

白黒つけない話をするときにも、白黒つけるかグレーかという二項対立から脱することができていない。グレーゾーンを定めるという時、それは曖昧でファジーなものを容認する立場であるようでいて、その実、グレーゾーン以外を非グレーゾーンとして認識する手助けにしかならない。グレーゾーンを明確に認識しようとすることは、非グレーゾーンでは白黒はっきりつけようということにもなる。白黒はっきり派からすればこれほど体の良いことはない。もし自分が白黒はっきり派だったら、「グレーゾーンを容認する」という立場を取るだろう。それだけで寛容と受け止められてなおかつ目的を達することができる。決められた場所以外はグレーゾーンではないのだからしっかりしないと、とかなんとかいって。じつにイージー。
だから「物事に白黒つけないでいる」ということは言われるべきことではない、というのがとりあえずの自分の立場だ。とりあえずの立場とすることはたいせつな保留ないし条件である。場合によっては「白黒はっきりさせないほうがいいのでは?」ぐらいのことは言わないといけなくなるかもしれない。想像するにじつに心寒いことではあるが。
白か黒かの話をしているときに、青が好き、赤が好き、あの黄色はあまり好かないけどこの黄色は好き、などと述懐することが、戦略上の是非はともかくとして、自分としてはやりたいことである。カラフルなキャンバスの上でこそ白か黒かをはっきり判断させられるということもあるのではないか、とかなんとかいって。