「さようなら」の実感

 

 

行く春や鳥啼き魚の目は泪

 

松尾芭蕉の句にこんなのがある。「おくのほそみち」で東北への旅に出る芭蕉が、もしかしたら自分の最後の旅になるかもしれないと思い、旅立ちの別れを惜しんで詠んだ句である。

この句では当たり前のことしか言っていない。

鳥は鳴くし、魚の目は泪というのはちょっと変わった表現にしても、魚の目が濡れているのは当然のことである。春は行くというのも当たり前のことだ。

変わらぬ日常を過ごしていると、そこに刺激を与えるような何か変わったことに価値があるように感じられる。実際、ちょっと変わったことが面白く感じられる。普通から逸脱しようという傾向や若干ハズしたいという気分がある。反対にその裏をついて普通を選ぶ手もある。

この場合の普通の価値というのは、普通であることそのものにあるのではなく、ハズしが主流になるようなあるポイントを踏まえたうえでそのポイントから逸脱してみせようとするところにある。変なことをされると、変だから処理しきれなくて笑いに出口を求める。僕が心から笑うのは、受け取った情報を処理しきれない時だ。僕はいろんなことですぐに笑うが、物事を自分では処理できない方向に受け取る癖が付いてしまっているのだと思う。当たり前に受け取るということが上手くできない。人がすること・喋ることの中に変だと思うものを見つけてしまう。

当たり前に受け取るという方法のひとつに習慣化がある。あることが起こればこう動くというのを決めて、決めたとおりに動くというやり方だ。いくつかパターンを作り、状況に合わせてそれらを出し入れするように徹底すれば、物事を当たり前に受け取ることができるようになるのだと思う。ただ、パターンが複数あればそれだけでふざけることもできて、Aという行動を要求する事態に対してBという行動で返すということを思いついてしまう。

パターンを習得するまではAという行動をどれだけスムーズにできるようになるかということに気を取られてふざける余地はない。しかし一度習得してしまえばふざける余地、つまり自由が増えることになる。自由が増えれば楽しみも増える。だから、そこを目指してAという行動を学習する意欲も湧いてくる。ところが、そうやって学習している状況がもっとも自由なのである。学習を終えてしまうと、自由に行動することが目的になる。その時点で自由に振る舞おうが自由に振る舞うまいがいずれにしても不自由ということになってしまう。自由を妨げるものが何もない状況で自由を得ることは不可能だ。自由に振る舞うようにと望まれる場所には不自由もないが、自由もない。

うまくできないものをうまくできるようにと学習することには、それ自体に喜びがある。そこにはスキルとして得るものに勝るとも劣らない価値がある。学習することはそれそのものが目的になりうる。

ふざけてどうぞと言われてふざけたくなるような人間はいない。ふざけるなと言われて初めてふざけようかという気にもなるのである。その意味でも人間は学習途上でしか本当にはふざけられないものだと思う。

僕には自由を求める気持ちがあるから、いつまでも学習することをやめないと思う。学習してそれを活かそうというのではなく(それは表向きの理由として看板にするつもりだが)、いつもふざけているために。

 

少し話がズレたから元に戻すと、当たり前のことでしかないことを言うことにはやはりそれ自体に価値というか意味があると僕は思う。

流れからの逸脱としての普通というものの価値ではなく、単純に普通のこととして、日常としての価値が普通のことにはあると僕は確信するに至った。

さようなら、なんていう普通の挨拶にしか伝えられないことがあると僕は考えるようになった。日常の有り難さなんていうひどい紋切り型にも情は通うし、当たり前のことが当たり前に悲しくても何も悪くない。むしろそれが良いんだということを実感できた。そのことに、僕にそう思わせたすべての出来事に感謝したい。

 

行く春や鳥啼き魚の目は泪

 

あの松尾芭蕉だって当たり前のことをわざわざ俳句に詠む。別れを惜しむなんていうのも同じパターンを何回も繰り返してきたはずだけど、それでも俳句に詠む。悲しくて当然のことを悲しみ、喜んでしかるべきことを喜ぶ。思ったことを表現することに意味はある。

僕も当たり前のことをありがたいと思いつつ、変なことを見つけていこうと思う。いつまでもふざけられるようにできるだけ頑張ろうと思う。あなたも頑張ってください。頑張れ。