フライは高い

 
タランティーノの映画を見て引き裂かれないような奴はウソだ。嘘つきじゃない。嘘だ。
ヘイトフルエイトという映画を映画館で見てきた。映画を見るためにある場所が映画館で、その映画館で見るものは映画。そう思うから僕は映画は映画館で見たい。
タランティーノ映画というと映画好きの間では名の知れた、評判の映画だ。血がいっぱい出ることで有名。ヘイトフルエイトも有名。
村上春樹の本を好きで読む人はハルキストと言われる。僕はハルキストという存在が大嫌い。タランティーノの映画を好きで見る人はタランティーニストとは言われない。もちろんハルキストとも言われない。だけど僕はそいつらのことも大嫌い。どっちも気障というか自然派っぽい雰囲気があってはっきり言って全然受け付けない。中でも両方とも好きで読むし見るなんて輩は最低のカスだと思う。僕は両方とも好きで読むし見るけどカスでもなければ最低でもない。むしろ最高。大好き。なぜならそこに自意識があるからで、僕の自意識は確実。僕の左ポケットの中にいつも入れている。他人の自意識はそいつの左ポケットの中にあるんだろうけど、そんなの見えないからわからない。そもそもそんなのに興味はない。自意識なく(ここでの自意識というのは罪の意識というのに近くて廉恥心とも言い換え可能)、村上春樹読むのは妙としか言いようが無い。自らハルキスト名乗れるカスに自意識などないからそいつは論外にしても、タランティーノ好きで登場人物の頭が吹っ飛ぶたびに映画館でポップコーン放り投げてビャハハと鳴くような奴もカスでしかない。そういうことしない奴らも、単に隣の席がそうしてないからその真似をしてるだけで、すぐスタバで村上春樹読んだりする。もしくはスタバで村上春樹読むのを恥ずかしがる。誰にも迷惑をかけないかぎり最大限かっこつける義務がわれわれにはあるということを忘れるような奴に自意識はない。なくてもいいんだという健全アニマルは最高でしかない。どうせそれも強がりなんだろうけど、頑張ってるからえらい。凡庸が一番。だよね。おやすみ。
とにかくタランティーノの映画を見てたら喚き散らしてる人間がいっぱい登場してぐぅ昂まってバアン。銃で打たれて血が飛び散って爆笑。みたいな風潮があるけど、あんなん普通にかわいそうだよね。爆笑するけど。かわいそう。そういうアンビバレンスに興奮するから笑う声にもつい力が入って、こらえ切れるはずのところをわざわざ大声出してアピールしたり、挙句ポップコーンをぶち撒ける事態にまで発展する。こういう一連の動きは僕がそれする場合には僕によって知られているから情状酌量の余地ありで無罪になるけど、隣の席の奴が同じことしてたら絶対に許されない。絶対に。
あと、このキャラは何々を象徴してて、そいつが死ぬのは何々の死を意味するとか、そういう映画の見方をして楽しむ奴らにも冷水ぶっかけてる感があって、やれやれタランティーノはつくづく愉快な奴だぜと思う。言わずもがなのレベルにまでその象徴とやらを持ち込んで、噛んで含めるように、赤子の手を捻るようにして「差別主義者への攻撃です」宣言をするのがおかしい。コーエン兄弟とかもよくやる遊びだけど、映画評論家様が座るソファーを拵えて、そいつが満足気にそこに座ったのを見て大喜びするような茶目っ気がある。「アホは鬼の首掴んだら一生持ってるからわりと画になるんよ」。
そういう遊びでもふざけ倒してどうしようもない作り事でも、死ぬってなっていよいよ終わるってなったら、良いものに見えてくるのが意地悪の極だと思う。終わりつつあるものが愛おしいという罠の威力。落とし穴あるぞって言ってるのに知ってるのにわかってるのにハマるまで終われないろくでもない地獄。
誰かが死んで大爆笑できるフィクションの醍醐味。薄めまくったらケツバットに代わるけど本質は同じ。誰かがアウトになってアウトなことになる可笑しさ。カスじゃなければ楽しめない。カスだから楽しい。でもやっぱ同時に悲しい。はい、気持ちいい、アウト。