否定は僕たちの記憶を生み出す

 

否定は僕たちの記憶を生み出す

 

記憶をさかのぼってどこまでいけますか? と聞かれたら、僕は「最初までいける」と答える。最初というのは生まれた瞬間のことではなく、生まれてくる前のことだ。

僕には生まれる前の記憶がある。金色の壁から光が通ってくる様子がビジョンとしてある。

 

記憶はどんどん失くなっていく。幼少の記憶はほとんどない。僕は親からたくさんの肯定を受けて育ったから、逆に、否定された場面というのがどうしても記憶に残る。

生まれる前に見たことを親に話して、それはないんじゃないかと苦笑いされたことを覚えている。たしか科学館のような場所で、生まれる前の景色を再現するコーナーでのやり取りだった。再現された景色が僕の持ってるビジョンと結構似ていると思ったので「結構似ている、たしかにこんな感じだった」という意味のことを言った。自分が見たことを話したのに肯定されなかった。そのことを覚えている。

時間の感覚はないから、絵として記憶に残っているにすぎないけど、もしその否定された感覚がなかったら、今こうしてその絵を覚えていることもなかっただろう。よく鬼ごっことかして遊んだ公園で、生まれる前の記憶があるか幼なじみと話し合ったのも思い出した。幼なじみはないと言った。僕はあると言った。僕は、あると言っても信じられないだろうと予想していたけど、かまわずにあると言った。嘘つきに思われるかもしれないけどべつにかまわないと感じていた覚えがある。

金色の壁というのはどんな感じかというと、懐中電灯に手をあてて手のひらを透かして見る時の赤いような光り方をもっと明るくしたような感じで、明るさが強くなって赤色が金色になるような光り方だ。

否定されたことは思い出になりやすい。これは僕に特有のことなのか、みんなに当てはまることなのかはっきりとはわからないけど、否定されるというのは殴られるのと同じで痛みを伴うことも多いから、覚えていることのほうが多いんだと思う。痛みの記憶は失くさないほうが生存に有利な感じがするし。

 

僕が一番つよく覚えているのは、記憶の領域を一番多く濃く使っているなと感じている出来事は、やはり否定されたことだ。日頃から考えることが多いのも、否定的な意見だ。他人と接触するときには肯定感を前面に出そうとするから、あまり考えて喋らないように心がけているぐらいで、考える事・思い出す事などはいつも否定的な事柄が多い。

他人といると、やはり「なあなあ」が一番大事だと思う。なあなあと言うと、いい加減とかだらしないとか、わるいイメージがあるかもしれないが、それはそれでとてもいいものだ。否定も肯定もしない関わり方、僕はそれをときに否定し、ときに肯定する。一貫して否定することも、一貫して肯定することもしたくない。ただ、どちらかを選べと言われれば肯定する方を選ぶつもりだ。僕の場合、迷ったら肯定しておけば間違いは少ない、と思っている。

否定するようなことは言いたくない。だけど、いつも考えているのは否定するようなことばかりだ。その反動なのか、僕には肯定するようなことを言いたい気持ちが強い。肯定するのは簡単だ。そうではなくて肯定するようなことを言うこと。気持ちはすでに肯定しているんだから言わずもがなのことであるはず、でも言う。 結局、逆接が入り込む。

純粋な言葉遊び。

言葉を用いた音遊び。

言葉から意味を抜き取る。

歌は音楽に近づく。

 

否定は僕たちの記憶を生み出す。でもそれは音楽の役割ではないはず。そういう通常の思考・通常の行動を超えたところに何かを設定しないと、僕たちは息苦しくてやっていけない。だからこそ音楽は音楽としてあるはず。

否定に音楽を使ってくれるな。と僕の音楽のマインドは申しておるし、

音楽に否定を使ってくれるな。と僕のマインドは叫んでいる。

ようするに僕が音楽に関して思うのは、その中になんでもかんでも含めないということで、制限はないんだから、制限がないからこそ、そこは自制すべきじゃないかということ。記憶だったら何でもいい、感情はすべて肯定されるべきというのは当然幻想なんだけど、その幻想は音楽向きではないと思う。

それから、音楽よりも思い出の方が大切だと今の僕は思う。