村上春樹の会話文から感じること

 

僕は村上春樹の小説を読むのが好きだ。村上春樹村上春樹の小説も嫌いではない。

僕が小説を読むときにもっとも興味惹かれるのは会話文である。反対にあまり読み進めるのが得意でないのは情景描写である。

村上春樹の小説中の会話はとてもユニークだ。だから村上春樹の小説を読むのが好きなんだと思う。村上春樹の会話文には重さも厚さもない。軽くて薄いというと、程度問題になって、軽いのだから重くないだけの重さがある、薄いのだから分厚くないだけの厚さがある、ということになるが、そういうのでもなく、もっと消極的に、あるべきはずの重さが「ない」という形での軽い、あるべきはずのの厚さが「ない」という形での薄い、ということである。こういうのは不足といえば不足なのだが、村上春樹の小説の会話は、読んでいるうちに、足りないものが「なくてもともと」だという気にさせられるようなところがある。

あるべきものは、しかるべきところにしかるべくあるべき、と、規範的に物事の有り様を捉える人にとっては、この「ない」ということは、ひょっとするとイラつくことなのかもしれない。

アンチ・村上春樹の人は「気障ったらしい文体が厭」とよく言っている気がするが、それはちょっといい加減な理由なんじゃないかと僕は思う。人が何を嫌おうが勝手にはちがいないけど、僕はいい加減な理由で物事を嫌いになる感性はあまり好きになれないし、そういう意見は信用しないことにしている。村上春樹の会話文が気障だから村上春樹が嫌いというのは、ちびまる子ちゃんに出てくる花輪くんが気障だから嫌いと言っている小学生の意見と変わるところがない。小学生の意見だったら好きになれないも何もない、そもそも本気にするようなことじゃないと思う。小学生ごめん。

べつに自分で思っていることを外に表明しなければならないという決まりはないのだから思っている分にはかまわないけれど、小学生並みの意見を堂々と押し出せるその気概や、根性ある感じが好きになれない。流行の定型表現で済ませる似非さっぱりした感じも鬱陶しい。

そもそも「気障ったらしいから」というのは本当の理由じゃないという気がする。村上春樹の小説の会話文には何か特定の人をイラつかせる成分が入っていて、イラつく人もイラつく人を見ている人もそれが何なのかわからないから、わかりやすい「気障っぽいところ」に白羽の矢を立てただけなのではないか。

では、村上春樹の会話文に入っているイラつかせるものとは何なのか。

小説において会話文とは、登場人物からべつの登場人物への「語りかけ」である。この語りかけは地の文にも見られる。語り手から読者への語りかけである。この語りかけの出来不出来というのは、語りかけられる側の好みに依存する。語りかけの精巧さは大胆さを欠くし、語りかけの率直さは繊細さを欠く。大胆な語りかけを好む場合は精巧さは邪魔になるし、反対に、繊細な語りかけを望む場合は率直さが邪魔をする。いい会話は、時と場合に応じて精巧さと率直さのあいだでバランスを取り、ちょうどいい塩梅になるよう、お互いに調整を入れるものだと思う。会話を引っ張るのが上手い人は語りかけが上手い人である。読ませる小説の会話文も、同じように語りかけが上手い。

会話を引っ張るのが上手い人は、自分の語りかけスタイルに相手を引き込んでしまう。相手に合わせて微調整をすることもあるのかもしれないが、その微調整にしても基本的には相手を自分の路線に引き込むためのものである。方法Aと方法Bがあって、さらにC、D、Eと、あくまで相手に合わせるという人に会話を引っ張るのが上手い人は少ない。会話を引っ張るのが上手い人はひとつの強力な方法Aだけを使って会話をリードする。方法Aが気に入らないという相手にはまったく通用しないものの、それ以外の相手にはかなり強力に作用する。何もかも半端な人はひとつことを極めた人には太刀打ちできない。

村上春樹の会話文には親密な雰囲気があり、意見を違えることがあったとしても、意図が通じないということがない。映画のワンシーンで、バーで男女が出会い、気の利いたジョークの応酬を2,3回ラリーするのを見ると、僕なんかは羨ましくてたまらない気持ちになるのだが、そういうウィットに富んだ会話展開がさらっと挿入されている。初対面の相手にむかってペラペラとウィットに富んだことを話しかけられる神経の太さと、相手の出方や外見を含めた相手の様子を観察する神経の細やかさが両立している。

村上春樹の会話文はとにかくわかりやすく、自分の言葉の意図が伝わらないかもしれない、相手がわからないかもしれない、という不安とは無縁なところに完成している。

それはわかるように書こうという作家としての良心の問題とも無関係ではないのだろうが、わからない人にとっては、そういう「わかるように」という態度が腹立たしく感じられる。また、わかりたくない人たちにとっては「わかるように」と企まれることがどうしても許せない。僕たちの生きる世界にはわからないことがあるという自明の理でさえわかりたくないという人も含めた、わかりたくない人、ある種の神秘主義者にとって、村上春樹は敵に見えている。

人は苦労しなければ、とか、頑張らない人生は無意味だと考え続けられる人にとっては、生きることは苦しみでなければならない。生きることは苦しいという現状認識がしみついて、生きることは苦しみでなければならないという姿勢にまで進んでしまう。認識はつねに規範意識へと駒を進める。できるだけ歩みを遅らせようとサイコロの出目を弄くったところで、賽をなげた以上「1」は進まなければならない。

僕は思うんだけど、人生には無理解がある。人は肝心なところで僕の意図を汲みとってくれない。素直に「わかるように」と心がけても失礼だろうから、反対に「わからないように」心がけつつ、それを失敗することでわかってもらおうとする僕のやり方に誰かウインクのひとつでも寄越しても良さそうなものなのに、僕はこれまで誰からもウインクをもらったことがない。僕以外の全員が僕に対する無理解を持って生きていると僕は思っている。そしてその大半は無関心の形態をとっている。

それは僕以外の人からみた僕にもそのまま当てはまることで、おそらく、僕にも誰かの意図を汲みとれていないということがよくある。意図を汲み取れていないと後から気づくのはまだマシな方で、気づかないまま流れていった誰かの意図もいくらでもあったことだろう。自分に向けられた意図は出来る限り拾いたいが、あまり関心を持てない相手や、つまらないとしか思えない意図には気づかないフリで済ませることもある。僕は結局、誰かの無理解を責める気にはなれない。誰からもウインクをもらえないとしても文句をいう筋合いはない。

僕の認識では、人生には無理解がある。しかし、僕は人生には無理解があるべきだとは思いたくない。だから、無理解など存在しないかのように振る舞ったり、無理解などあり得ないということを自分自身言い聞かせたりする。そうすることで認識と規範との距離をできるだけあけておきたいと思っている。

村上春樹の小説の会話文に「ない」ものはたくさんあると思うが、そのひとつは無理解だろう。無理解がないことでスムーズに進む会話の軽妙洒脱な雰囲気、それに腹を立てるとすれば、そんなものは嫉妬でしかない。僕はこの前はじめて村上春樹の小説の会話文にイラついた。それは一方では無理解のなさへの疑問だったのだろう。そうは言っても、登場人物の女性の物分りの良さに対する羨望も混じっている以上、イラだちが嫉妬でしかないと捉えられても文句をいう筋合いはない。やむをえないこと・しょうがないことだという気がする。

僕の認識は、しょうがないを経由してゆっくりではあるが確実に規範意識に進んでいるようだ。規範意識でガチガチになるのもいやだなあと思うので、できるかぎり”しょうがない”で留まっておきたい。

 

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

1973年のピンボール (講談社文庫)