「こころ」に見るエゴイストの告白

 
告白をするかどうか
 
「こころ」の第三章にあたる「先生と遺書」では、先生の暗い過去が語られる。
それは先生の友人Kの自殺に関係する話である。同じ下宿に住んでいた先生とKは同じ相手に恋をする。下宿先のお嬢さんである。
ある日、Kはそのことを先生に告白する。先生は自分の恋心についてKに告白せず、隠したままにしてお嬢さんとの結婚を目指す。その結果、先生とお嬢さんとの結婚が決まり、Kは自殺する。
「Kの告白」と、「先生とお嬢さんの結婚」、「Kの自殺」は、それぞれに別個の出来事であり、直接の因果関係があるわけではない。
しかしそれらは時系列にしたがって起こった出来事であり、そうである以上、そこに何らかの因果関係を見てしまう。Kは先生にお嬢さんへの切ない恋心を打ち明ける。先生はそれを知った上で、いわばKを出し抜く形でお嬢さんとの結婚を決める。Kは先生とお嬢さんの結婚を奥さんから知らされた上で、先生の部屋の隣で自殺する。こういう一連の出来事が起こった場合、それらを因果関係で結び付けないわけにはいかない。
3つの出来事のうち、Kの自殺がもっとも大きな出来事である。さまざまな要因が重なり、Kの自殺という出来事に向かっていく形で先生の語りは語られる。実際、先生が苦しい生を生きざるを得なかったとすれば、すべてはKの自殺に端を発しているのは明らかである。
そうであれば、小説にとってもそれを読む読者にとっても重要になるのは、なぜKは自殺をしたのかという動機の部分である。また、Kはどの時点で自殺を決意したのか、あるいはどの時点から自殺を考え始めたのかというのも考えられなければならない。
やはりきっかけはお嬢さんへの恋だろう。お嬢さんへの恋心とKが目指す「道」との間で葛藤が生じ、自分の中に起こった矛盾を処理しきれずに、自ら死ぬことが頭をよぎったのかもしれない。のちに先生が年少の「私」にむかって「恋は罪悪ですよ」と謎のような言葉を繰り返すのは、恋がKの自殺のきっかけになっていることを暗に示しているのだろう。
また、友達というほどの友達は一人もいないKにとって、先生は例外的な理解者だった。だからこそ、相談するつもりもあってKは自身の恋について告白をしたのだと考えられる。そのKの本意を汲み取ることができなかったのは、先生自身のお嬢さんへの恋心が邪魔をしていたからだということができる。Kが先生を協力者として見ていたのに反して、先生の方ではKを恋のライバル、敵対者として見ていた。自分を晒すことになる告白が正しく受け入れられないところにKは孤独を感じたのだろうと想像される。Kにとってはまだしも自分一人で抱え込んでいるほうがよかった。自分の感情をひらくということに失敗した時に、Kははじめて孤独を感じたのである。
それにしてもKが先生に対して告白をするというのはおかしな出来事である。告白するというのはKの人物像にどうもそぐわない。彼は自分の考えをうちに秘めておくタイプであるように思う。そう考えるとKはお嬢さんに恋心を抱く前からすでに行き詰まりを感じていたのかもしれない。書き置きに残されていた「自分は薄志弱行でとうてい先の望みがないから自殺する」という言葉はこの行き詰まりに対する言及ではないか。
この行き詰まりは、おそらく先生によってもたらされている。先生はKに対する好意から下宿を紹介したり、一緒に学校に行ったりする。孤高を守っている時のKからすれば、このように先生と一緒に過ごす自分は、それだけ道から遠ざかったところにいるということになる。道を希求するKにはそれが堕落したものとしか思えない。他人の世話になるということに関して問題を感じているのではない。実際、Kは父母を騙して金をせしめていながら恬然としている。そこに他人を利用するということに対しての倫理的葛藤は見られない。その点、Kはかなりのエゴイストである。
では、Kにとっての行き詰まりの正体とは何であったか。
それは自分にとって他人が必要であり、他人と関わり合いを持ちたいとさえ思ったということである。Kにとっては先生ははじめて「必要」になった他人であった。物資の面だけでなく感情の面からも。
エゴイストにとって他人と関係したいと思うことはその欲望自体がひどく困難である。自分の閉じた世界で自足していること、自分のことだけで満足していられることが矜持ともなり、はるかに自然であるひとりの人間にとって、他人との交情を望むことは難しい。そんな人間が自分以外の他人に対して思いを打ち明けるというのは、どう考えてみてもひとつの事件である。
それを先生が正しく感じとっていたかどうか。Kの自殺は、先生に大きな影響を与えたが、Kの告白はどうだったか。Kの自殺を、自分自身のその後を大きく左右する事件だった感じていることは彼の書きぶりによって明らかである。実際、Kの自殺という一点に語りは収束し、関心は向けられている。
なぜKは自殺したのか、だけを問う先生もかなりのエゴイストである。少なくとも自分以外のエゴイストのエゴを見ようとしない程度にはエゴイストである。なぜKは自分に向かって告白をしたのかという視点がすっぽり抜け落ちている。
エゴイストは自分が他人に関係し、他人が自分に関係するということを当然のこととは見なせない。交際するのにもなにかの理由を見つけて安心しなくてはならない。個人主義的な人間の告白には不合理なところがある。いや、むしろ当人の心に沿っていえば不合理でしかない。
「こころ」の問題はKの告白という点にこそ見られるべきである。それはKが他人と関わりを持とうとするはかない挑戦の瞬間だからだ。告白は当然の帰結として失敗する。思いが強ければ強いほど残酷なかたちで頓挫する。死によって自らを永久に閉ざすことがそれよりも困難だとは思わない。ある人にはとじることよりもひらくことのほうが較べようもなく難しい。
Kがエゴイストになりきれないで行なった告白は、彼にとっては唯一の挑戦でもあった。彼の信じた道への反抗であった。
先生が黙って死ぬのではなく「私」に暗い過去を語り残して死ぬことを選んだのもやはり挑戦であっただろうか。私はそうは思わない。先生は完全なエゴイストとして死ぬことを選んだように思える。白い布に一滴のインキもこぼさないようにして。Kが襖に赤い血を迸らせたのとは対照的に。
 ところが、それは結果でしかない。その結果をもたらした心については想像することしかできない。
 
 
反抗によって発見された相互理解とコミュニケーションは自由な会話のなかでなくては永続しえない。あいまいと誤解は死を招く。明白な言語、単純なことばのみがこの死を救うことができる。あらゆる悲劇のクライマックスは、他人のことばが主人公たちの耳にはいらない点にある。
『反抗的人間』カミュ