このまえ驚いたこと

 

この前、驚いたこと。

 

1.月亭方正の落語が面白かった。

2.村上ショージの漫談が面白かった。

 

・はじめに

2016年現在、日本では国民のおよそ二人に一人がお笑い好きであるとされている。

これは世界でも類を見ないほどの数字であり、日本のお笑い文化の水準はズバ抜けて高いといえる。同じぐらいの人気があるサッカーと比べると、FIFAランキング56位(2016年3月6日現在)に対してOWARAIランキングは堂々の1位である。日本のお笑いは人気と実力を兼ね備えたスーパーな見世物なのである。

このように世界的には敵なしである日本のお笑い界は、その反面、国内の競争が激しいことで知られている。

 

1.月亭方正の落語が面白い

月亭方正は、山崎邦正から改名して、テレビタレントと並行して落語家としてもお笑い活動をしている。NHKの落語を放送する番組でも【トーク無し・落語だけ】で高座に上がっており、会場のお客さんとテレビの前の落語ファンを笑わせている。彼の愛嬌のあるキャラクターを活かした演目は素人目にも完成度が高い。「大安売り」「紙入れ」などで間の抜けた人物をうまく演じ、笑いを誘う。

落語は最大風速こそお笑いバラエティ番組に一歩譲るが、自然に笑ってしまったり、その技量に感心しつつ笑うという部分では、歴史がある分、一歩も二歩も長じている。

テレビでは顔芸のイメージしかない月亭方正が高座にあがって身一つで聴衆を笑わせている様子はそれ自体が可笑しくて痛快でさえある。落語はお笑いバラエティに比べて時間をかけるお笑い形式なので、余剰の部分が豊かにある。そこで見えてくるのは月亭方正が落語を演じることを楽しんでいる姿である。お笑いバラエティでは、その瞬間に笑えるかどうかということを最重要視するため、演者が自ら楽しんでいるかどうかは二の次である。極論すればお笑いが好きでも嫌いでも笑えれば関係ないというのがテレビのお笑いである。

落語にしても、高座に上がればそれ以外の生活で何をしていようが関係ない、寄席にきた客が笑えればそれで文句ないという考え方はあるのかもしれない。ただ、それをラディカルに突き詰めたお笑い番組に比べれば、まだもう少しはのんびりしているように思える。お笑いの最先端はつねにテレビにあるのかもしれないが、つねに最先端が素晴らしい、最先端のお笑いだけがお笑いだというのは違ってきているように思う。あるいは僕が年を食ってそう思うだけかもしれないが。

お笑い番組というフォーマットを利用して、それを裏切ることで新しいお笑いをつくるオリエンタルラジオの「Perfect Human」という歌ネタも、キャラクターというよりは人柄で自然発火的に笑いが起こるロケ番組も、僕には面白く思える。お笑いにおいても総合力が試される時代が来たのではないか。

落語では良くも悪くも人柄が目につくと思う。また、笑えるかどうかという基準と対等の基準として「上手い/下手」という基準がある。泣かせる語り、怖がらせる語りも、笑わせる語りもおしなべて落語の要素のひとつであるという余裕があるから、笑いも無理が生じたり不自然になったりしないんだと思う。

 

2.村上ショージの漫談が面白い

村上ショージは面白くない一発ギャグの名手としてお笑いバラエティの一角に君臨している。【面白くないけれど、笑える。】というお笑いがテレビのお笑いにはしっかり根付いている。テレビのお笑いの観客は一番文句が多い客で、上手いだけでは肩が凝るなどと言い出すので、面白くないキャラクターは欠かせないのである。

村上ショージは、第一線ではないにせよ、押しも押されもせぬベテランの”面白くないキャラクター”だと思っていた。なので、彼が突然ネタ番組に登場したときには驚いた。

村上ショージが披露した演芸は、ひとりで舞台に上がって話す漫談の形式で、普通に面白く、さらに驚いた。自分のキャラクターを活かしつつ、新しい試みを披露しつつ、しっかりした構成を持っていて客との絡みなどアドリブ要素も盛り込んだ漫談で、普段のお笑いバラエティで見せる姿とのギャップをお笑いバラエティの最先端ともいえるネタ番組で披露するところに格好良さがあった。

ネタも、紙切り漫談をしようとしてめちゃくちゃになってしまうというもので、大枠を用意してブチ壊す、メタ的なとがったお笑いだった。ジャルジャルのコントぐらい切れていた。切れてるオッサンには狂気的な面白さがある。

 

 

・まとめ

月亭方正村上ショージに共通するのはスベリ芸の名手であるというところで、彼らはテレビのお笑いという強烈な文脈の中でハッキリした固定的な役柄を与えられていた。他人に活かされて笑いをとるスタイルで、それはそれでプロの技でもあるし、求められるものに応えている点でキッチリ仕事をこなしているといえる。しかし、彼らがその状況に満足せず、自分発信でお客さんを笑わせたいという気持ちを持って芸を磨く方向にシフトしたところに、たんに笑える以上の、元気が出るようなバイタリティが湧いてくるようなお笑いが生まれていると思う。

とはいえ、これはすでに売れているからこそできるお笑いである。イメージがフリになっていて上手なのがギャップで面白いというのと、上手いから笑えるというのと、二段構えになっている。そういうわけで、月亭方正の落語と村上ショージの漫談は、贅沢なお笑いだと思った。

 

 

 

否定は僕たちの記憶を生み出す

 

否定は僕たちの記憶を生み出す

 

記憶をさかのぼってどこまでいけますか? と聞かれたら、僕は「最初までいける」と答える。最初というのは生まれた瞬間のことではなく、生まれてくる前のことだ。

僕には生まれる前の記憶がある。金色の壁から光が通ってくる様子がビジョンとしてある。

 

記憶はどんどん失くなっていく。幼少の記憶はほとんどない。僕は親からたくさんの肯定を受けて育ったから、逆に、否定された場面というのがどうしても記憶に残る。

生まれる前に見たことを親に話して、それはないんじゃないかと苦笑いされたことを覚えている。たしか科学館のような場所で、生まれる前の景色を再現するコーナーでのやり取りだった。再現された景色が僕の持ってるビジョンと結構似ていると思ったので「結構似ている、たしかにこんな感じだった」という意味のことを言った。自分が見たことを話したのに肯定されなかった。そのことを覚えている。

時間の感覚はないから、絵として記憶に残っているにすぎないけど、もしその否定された感覚がなかったら、今こうしてその絵を覚えていることもなかっただろう。よく鬼ごっことかして遊んだ公園で、生まれる前の記憶があるか幼なじみと話し合ったのも思い出した。幼なじみはないと言った。僕はあると言った。僕は、あると言っても信じられないだろうと予想していたけど、かまわずにあると言った。嘘つきに思われるかもしれないけどべつにかまわないと感じていた覚えがある。

金色の壁というのはどんな感じかというと、懐中電灯に手をあてて手のひらを透かして見る時の赤いような光り方をもっと明るくしたような感じで、明るさが強くなって赤色が金色になるような光り方だ。

否定されたことは思い出になりやすい。これは僕に特有のことなのか、みんなに当てはまることなのかはっきりとはわからないけど、否定されるというのは殴られるのと同じで痛みを伴うことも多いから、覚えていることのほうが多いんだと思う。痛みの記憶は失くさないほうが生存に有利な感じがするし。

 

僕が一番つよく覚えているのは、記憶の領域を一番多く濃く使っているなと感じている出来事は、やはり否定されたことだ。日頃から考えることが多いのも、否定的な意見だ。他人と接触するときには肯定感を前面に出そうとするから、あまり考えて喋らないように心がけているぐらいで、考える事・思い出す事などはいつも否定的な事柄が多い。

他人といると、やはり「なあなあ」が一番大事だと思う。なあなあと言うと、いい加減とかだらしないとか、わるいイメージがあるかもしれないが、それはそれでとてもいいものだ。否定も肯定もしない関わり方、僕はそれをときに否定し、ときに肯定する。一貫して否定することも、一貫して肯定することもしたくない。ただ、どちらかを選べと言われれば肯定する方を選ぶつもりだ。僕の場合、迷ったら肯定しておけば間違いは少ない、と思っている。

否定するようなことは言いたくない。だけど、いつも考えているのは否定するようなことばかりだ。その反動なのか、僕には肯定するようなことを言いたい気持ちが強い。肯定するのは簡単だ。そうではなくて肯定するようなことを言うこと。気持ちはすでに肯定しているんだから言わずもがなのことであるはず、でも言う。 結局、逆接が入り込む。

純粋な言葉遊び。

言葉を用いた音遊び。

言葉から意味を抜き取る。

歌は音楽に近づく。

 

否定は僕たちの記憶を生み出す。でもそれは音楽の役割ではないはず。そういう通常の思考・通常の行動を超えたところに何かを設定しないと、僕たちは息苦しくてやっていけない。だからこそ音楽は音楽としてあるはず。

否定に音楽を使ってくれるな。と僕の音楽のマインドは申しておるし、

音楽に否定を使ってくれるな。と僕のマインドは叫んでいる。

ようするに僕が音楽に関して思うのは、その中になんでもかんでも含めないということで、制限はないんだから、制限がないからこそ、そこは自制すべきじゃないかということ。記憶だったら何でもいい、感情はすべて肯定されるべきというのは当然幻想なんだけど、その幻想は音楽向きではないと思う。

それから、音楽よりも思い出の方が大切だと今の僕は思う。

 

 

村上春樹の会話文から感じること

 

僕は村上春樹の小説を読むのが好きだ。村上春樹村上春樹の小説も嫌いではない。

僕が小説を読むときにもっとも興味惹かれるのは会話文である。反対にあまり読み進めるのが得意でないのは情景描写である。

村上春樹の小説中の会話はとてもユニークだ。だから村上春樹の小説を読むのが好きなんだと思う。村上春樹の会話文には重さも厚さもない。軽くて薄いというと、程度問題になって、軽いのだから重くないだけの重さがある、薄いのだから分厚くないだけの厚さがある、ということになるが、そういうのでもなく、もっと消極的に、あるべきはずの重さが「ない」という形での軽い、あるべきはずのの厚さが「ない」という形での薄い、ということである。こういうのは不足といえば不足なのだが、村上春樹の小説の会話は、読んでいるうちに、足りないものが「なくてもともと」だという気にさせられるようなところがある。

あるべきものは、しかるべきところにしかるべくあるべき、と、規範的に物事の有り様を捉える人にとっては、この「ない」ということは、ひょっとするとイラつくことなのかもしれない。

アンチ・村上春樹の人は「気障ったらしい文体が厭」とよく言っている気がするが、それはちょっといい加減な理由なんじゃないかと僕は思う。人が何を嫌おうが勝手にはちがいないけど、僕はいい加減な理由で物事を嫌いになる感性はあまり好きになれないし、そういう意見は信用しないことにしている。村上春樹の会話文が気障だから村上春樹が嫌いというのは、ちびまる子ちゃんに出てくる花輪くんが気障だから嫌いと言っている小学生の意見と変わるところがない。小学生の意見だったら好きになれないも何もない、そもそも本気にするようなことじゃないと思う。小学生ごめん。

べつに自分で思っていることを外に表明しなければならないという決まりはないのだから思っている分にはかまわないけれど、小学生並みの意見を堂々と押し出せるその気概や、根性ある感じが好きになれない。流行の定型表現で済ませる似非さっぱりした感じも鬱陶しい。

そもそも「気障ったらしいから」というのは本当の理由じゃないという気がする。村上春樹の小説の会話文には何か特定の人をイラつかせる成分が入っていて、イラつく人もイラつく人を見ている人もそれが何なのかわからないから、わかりやすい「気障っぽいところ」に白羽の矢を立てただけなのではないか。

では、村上春樹の会話文に入っているイラつかせるものとは何なのか。

小説において会話文とは、登場人物からべつの登場人物への「語りかけ」である。この語りかけは地の文にも見られる。語り手から読者への語りかけである。この語りかけの出来不出来というのは、語りかけられる側の好みに依存する。語りかけの精巧さは大胆さを欠くし、語りかけの率直さは繊細さを欠く。大胆な語りかけを好む場合は精巧さは邪魔になるし、反対に、繊細な語りかけを望む場合は率直さが邪魔をする。いい会話は、時と場合に応じて精巧さと率直さのあいだでバランスを取り、ちょうどいい塩梅になるよう、お互いに調整を入れるものだと思う。会話を引っ張るのが上手い人は語りかけが上手い人である。読ませる小説の会話文も、同じように語りかけが上手い。

会話を引っ張るのが上手い人は、自分の語りかけスタイルに相手を引き込んでしまう。相手に合わせて微調整をすることもあるのかもしれないが、その微調整にしても基本的には相手を自分の路線に引き込むためのものである。方法Aと方法Bがあって、さらにC、D、Eと、あくまで相手に合わせるという人に会話を引っ張るのが上手い人は少ない。会話を引っ張るのが上手い人はひとつの強力な方法Aだけを使って会話をリードする。方法Aが気に入らないという相手にはまったく通用しないものの、それ以外の相手にはかなり強力に作用する。何もかも半端な人はひとつことを極めた人には太刀打ちできない。

村上春樹の会話文には親密な雰囲気があり、意見を違えることがあったとしても、意図が通じないということがない。映画のワンシーンで、バーで男女が出会い、気の利いたジョークの応酬を2,3回ラリーするのを見ると、僕なんかは羨ましくてたまらない気持ちになるのだが、そういうウィットに富んだ会話展開がさらっと挿入されている。初対面の相手にむかってペラペラとウィットに富んだことを話しかけられる神経の太さと、相手の出方や外見を含めた相手の様子を観察する神経の細やかさが両立している。

村上春樹の会話文はとにかくわかりやすく、自分の言葉の意図が伝わらないかもしれない、相手がわからないかもしれない、という不安とは無縁なところに完成している。

それはわかるように書こうという作家としての良心の問題とも無関係ではないのだろうが、わからない人にとっては、そういう「わかるように」という態度が腹立たしく感じられる。また、わかりたくない人たちにとっては「わかるように」と企まれることがどうしても許せない。僕たちの生きる世界にはわからないことがあるという自明の理でさえわかりたくないという人も含めた、わかりたくない人、ある種の神秘主義者にとって、村上春樹は敵に見えている。

人は苦労しなければ、とか、頑張らない人生は無意味だと考え続けられる人にとっては、生きることは苦しみでなければならない。生きることは苦しいという現状認識がしみついて、生きることは苦しみでなければならないという姿勢にまで進んでしまう。認識はつねに規範意識へと駒を進める。できるだけ歩みを遅らせようとサイコロの出目を弄くったところで、賽をなげた以上「1」は進まなければならない。

僕は思うんだけど、人生には無理解がある。人は肝心なところで僕の意図を汲みとってくれない。素直に「わかるように」と心がけても失礼だろうから、反対に「わからないように」心がけつつ、それを失敗することでわかってもらおうとする僕のやり方に誰かウインクのひとつでも寄越しても良さそうなものなのに、僕はこれまで誰からもウインクをもらったことがない。僕以外の全員が僕に対する無理解を持って生きていると僕は思っている。そしてその大半は無関心の形態をとっている。

それは僕以外の人からみた僕にもそのまま当てはまることで、おそらく、僕にも誰かの意図を汲みとれていないということがよくある。意図を汲み取れていないと後から気づくのはまだマシな方で、気づかないまま流れていった誰かの意図もいくらでもあったことだろう。自分に向けられた意図は出来る限り拾いたいが、あまり関心を持てない相手や、つまらないとしか思えない意図には気づかないフリで済ませることもある。僕は結局、誰かの無理解を責める気にはなれない。誰からもウインクをもらえないとしても文句をいう筋合いはない。

僕の認識では、人生には無理解がある。しかし、僕は人生には無理解があるべきだとは思いたくない。だから、無理解など存在しないかのように振る舞ったり、無理解などあり得ないということを自分自身言い聞かせたりする。そうすることで認識と規範との距離をできるだけあけておきたいと思っている。

村上春樹の小説の会話文に「ない」ものはたくさんあると思うが、そのひとつは無理解だろう。無理解がないことでスムーズに進む会話の軽妙洒脱な雰囲気、それに腹を立てるとすれば、そんなものは嫉妬でしかない。僕はこの前はじめて村上春樹の小説の会話文にイラついた。それは一方では無理解のなさへの疑問だったのだろう。そうは言っても、登場人物の女性の物分りの良さに対する羨望も混じっている以上、イラだちが嫉妬でしかないと捉えられても文句をいう筋合いはない。やむをえないこと・しょうがないことだという気がする。

僕の認識は、しょうがないを経由してゆっくりではあるが確実に規範意識に進んでいるようだ。規範意識でガチガチになるのもいやだなあと思うので、できるかぎり”しょうがない”で留まっておきたい。

 

 

1973年のピンボール (講談社文庫)

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